人間は生まれながらに人間でない。生物学的には哺乳類としてのヒトである。
そこでまず、哺乳類としてのヒトの感覚(五感)を磨くことが肝要である。これは、親が過保護にさえしなければ子供は本来的に意欲を持っている。手を加えなければ、裸で、裸足で、自然と接していれば、動物的感覚は身につくであろう。これは、動物に育てられた野生児を見ても分かる。しかし、人間の家庭と人間の社会の中でないと、外形はヒトであっても人間にはなれないこともまた事実である。
自然体験学習の教育的効果
「教育は教えるものではなく、学ばせるのである。その学び方を指導するのである。背負って川を渡るのではない。手を引いて川を渡らせるのである。」現在の学校教育では、自然に学ぶ教育は、実施し難くなっていることは確かである。手を引いて渡るどころか背負って渡ればまだいい方で、コンクリートで橋をつくり、その上を自動車で渡るような自然体験学習がおこなわれている。事実、ある大都市の学校で、「郷土の自然を訪ねて」というバスによる体験学習を実施した時の話がある。郷土に点々と残されている公園や社寺林などを一日で訪ねまわった感想をかかせたところ、自然の印象より車窓よりみた市街地の印象が強く書かれていて驚いてしまったという。時間的にもバスに乗っている方が長かったという。たしかに、こうした体験学習は安全で時間的にも早いが、その教育効果には疑問がある。
人間が人間として生きて行くためには人間教育が必要である。
自然体験学習の目的
人間が人間として生きて行くためには人間教育が必要である。人間の遺伝子を持っていれば放置しても人間になれると考えるのは間違いである。”親はなくても子は育つ”と昔から言われるが、人間か育てなければ人間にはなれない。
狼に育てられても、外形としてのヒトの形態や血液型など環境と関係ない形質は発現する。しかし、人間性は人間が引き出してやらないと発現しない。これを引き出すのが教育である。日本語の教育という言葉は”教える”という印象が強く、既成の知識をわかりやすく教えること、もっと悪くいえば知識を詰め込むことのようにとれる。この点、ヨーロッパの言葉は、たとえばドイツ語のErziehungは内にあるものを表に(er)引き出す(ziehen)という意味になっている。英語のエデュケーション(Education)も同様に才能を引き出すこと、考える力をつけてその知恵を引き出すという意味である。
自然体験学習のねらいも、この才能や、知恵を引き出すことにある。自然との接触を通して、人間の中に潜む感性を呼びささまし、大自然の美しさ、雄大さ、偉大さに感動する子供をつくることがまず一義的なねらいとなる。この結果、感受性が豊かになり、さらに自然を探求しようという意欲がわいてくる。そして、この自然の探求を通して自主的判断力や想像力を養うことが自然体験学習の究極的なねらいである。
農業のもつ教育力
現在、自己教育力を助長する素材であり、環境として、農業・農村が問われる傾向が生じてきた。一言に農業・農村の教育力といっても、そこに負の作用をするものもある。しかし、「人間の衰弱」を再び活性化させる素材、土俵としてなぜ農業・農村が登場したのだろうか?
第一に、人間が人間の存在位置を知る必要があるという点である。
人間は天然自然の一部であり人間を超えたものがあると知るときに、謙虚さを知ることができる。農業を行う場合、積雪、豪雨、干天に見舞われ、寒冷、熱暑の中で働くことを余儀なくされる。被害の大小にかかわらず不意の事故に遭遇し、挫折のない農業はない。
第二に、生物を育む農業は農林水産業以外にはない。育む行為と作る行為とはまったく異なり、育む行為はそのプロセスの中で自己を育み、人間関係を育み、情緒を育み、社会を育む行為につながる要素をもつ。それは、連帯と秩序を要するゆえにである。水田の灌水も農作物の病害虫防除も気候の激変への対処も、個人の力では不可能であるからである。
return to home