菅原道真の子孫・久松松平家

 承和12年(845)に従三位文章博士清公の孫、従三位参議是善の三男として誕生した道真は、貞観12年(870)より官吏としての生活をはじめます。以後、出世の道をたどり、元慶元年(877)には文章博士、仁和2年(886)には讃岐守となり、蔵人頭、参議、遺唐大使と出世を続けます。

 これは、宇多天皇に抜擢されたためでしたが、道真の才能と天皇庇護をうらやんだ政敵・藤原時平(ときひら)の讒言(ざんげん)により左遷されてしまいました。京都を追われ、太宰府に下向され、延喜三年(九〇三)太宰府で没しています。

 無実の罪で憂死した道真への同情が高まりつつあった頃、京都では数10年にわたり天変地異が起こりました。空は雷が鳴り続け、しかも日照りによる水不足が起こります。作物は採れず、疫病が流行し、藤原氏一門は、ことごとく凄絶な死を遂げました。

 朝廷はこれを道真の祟りだと考え、火雷天神の号を賜り、天徳3年(959)藤原師輔の手で神殿を増築し、神宝を奉りました。これが京都の北野天神です。

 高虎の後を受けて今治藩を治めることになる松平定房は、天神こと菅原道真を先祖に持ちます。そのためか、久松松平家は、綱敷天満宮をはじめとする天神を信仰しています。また、隣の松山藩には、定房の兄・定行が移封されました。

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