徳川家康との関係?

 久松松平家は、徳川家康の松平宗家よりも古く、格式も高い家柄です。室町時代に菅原道定が尾張に下り、久松姓を名乗ったのがはじまりです。松平家となるのは、定房の父・定勝にはじまります。定勝の母である伝通院於大の方は、三河国岡崎城主だった徳川広忠に嫁ぎ、家康を産みました。そののち、家康が3歳のときに於大の方は、久松俊勝と再婚し、定勝を産んだのです。

 定勝と家康は、異父兄弟にあたるため、家康の引き立てがあり、信任も厚かったようです。定勝は、関ヶ原の戦いに軍功をたてて、慶長7年(1602)に江州日野2000石、慶長12年(1607)には掛川3万石の城主となりました。大坂の陣においても活躍し、元和3年(1617)に桑名11万石の城主として封ぜられましたが、寛永元年(1624)、65歳でこの世を去っています。ちなみに、徳川家康は源氏の血筋と伝えられます。

 定房は、慶長9年(1604)定勝の五男として三河国掛川に生を受け、寛永元年(1624)長島で旗本、 寛永12年(1635)今治藩に移封となりました。

 今治は、定房入部以降、久松松平家が支配し、明治維新に至ります。伊予今治と下総多古藩の久松松平家は、譜代扱い。伊予松山藩と伊勢桑名藩が親藩扱い。隣の松山藩には、定房の今治移封と同時に、兄の定行が藩主となりました。

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