今治藩の殿様たち

 今治初代藩主の定房は、久松定勝の五男。松山藩主・定行は兄にあたります。寛永12年(1635)9月4日に拝志の浜に上陸しました。治世40年、今治藩の基礎を固めました。また、幕府は、定房の政治手腕を活かそうと、江戸城代という重要な役職を与えます。そのため、関東に1万石加増されました。

 二代定時は、定房の二男。延宝2年(1672)に定房の跡目を継ぎますが、わずか2年の治世、42歳で没しました。定時は、藩の兵制を整備し、これは文久の改革まで今治藩兵制の基本となりました。

 三代定陳は、定時の二男。兄の定直が松山藩を継いだため、10歳で今治藩主となりました。新田開発や殖産興業に力を入れるとともに詩や絵画にも優れていました。元禄11年(1698)福山城のお家断絶に伴い、福山に向かいました。36歳で死亡しています。

 四代定基は、定陳の長男。元禄15年(1702)、17歳で藩主となりますが、この時期は洪水や干ばつ、災害や火災など、藩の財政を揺るがす事件が数多く起こっています。そのため、借財や藩士への引米などで、藩士たちの志気は低下しました。治世32年。隠居の後、74歳で没しています。

 五代定郷は、三代定陳の弟・松平定道の六男で定基の養子。享保17年(1732)に藩主。就任とともに享保の大飢饉、蒼社川の氾濫など、災害が多く、度々の倹約令を出しています。宝暦12年(1762)に長男の定温が死亡し、定郷は62歳で死亡。孫への嗣子決定が遅れ、あやうくお家断絶になるところでした。

 六代定休は、定郷の孫で長男・定温の長男。12歳で藩主となり、39歳で隠居するまで28年の治世でした。在任中は蒼社川の改修や鹿子池の普請、商業からの税収を図っています。隠居後は風流に生き、69歳で没しました。

 七代定剛は、定休の長男。寛政2年(1790)、20歳で藩主となり、治世35年。藩政に力をふるい、さまざまな改革を行いました。藩校を創設し、藩士教育に力を入れ、73歳で生涯を終えています。

 八代定芝は、定剛の次男。文政7年(1824)に34歳で藩主となり、治世14年。天保8年(1837)47歳で死亡しました。天保山堤の完成や大坂で起こった大塩の乱の鎮圧応援などを行っています。

 九代定保(勝道)は、六代定休の子の池田政行の二男で定芝の養子。天保8年(1837)、25歳で藩主となり、治世26年で隠居しています。この時期は、幕末の藩政崩壊期。財政も貧窮し、農家や商人層から差上金を徴収しています。しかし、異国船渡来警護に関して莫大な供出金をおこなわなければならず、ますます財政は逼迫しました。慶応2年(1866)、54歳で死亡しました。

 十代定法は、八代定芝の三男。文久2年(1862)29歳で藩主となり、版籍奉還まで8年の治世をこなしました。困難な時期でしたが、藩の意見を良くまとめ、時代の変化に対応しています。海防の強化や兵制の改革、今治城の鈍川移転計画などを行い、幕府の方針には異議をとなえました。明治2年(1869)、今治藩知事に任命されましたが、廃藩置県で罷免されました。明治34年(1901)に68歳で死亡しています。

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