松山藩主となった今治の久松松平家

 延宝2年(1674)1月、松山藩三代目藩主・松平定長は急の大病となり、2月に死亡しました。子供がいなかったため、その年の4月、今治藩主・松平定時の子・定直が15歳で松山藩主となりました。

 定直の代に松山藩では、城に天神櫓をつくり、寺社への寄進を盛んに行うなど、信仰面での取り組みが目立ちます。これは、定直が今治藩からの養子であることに加え、二代定頼の落馬死、三代定長の病死が大きく影を落としています。加えて、中国の僧・即非を招き、寺町に黄檗宗の千秋寺を創建しました。この寺は、「松山に過ぎたるもの」といわれるほど、偉容を誇る寺でした。
 城の天神櫓は、鬼門の方向に建ち、祖霊である菅原道真が祀られました。 ここには菅原道真の像が置かれたといいます。

 延宝3年(1675)には大飢饉がおこり、天和3年(1683)には、松山藩領波止浜に塩田ができました。貞享元年(1685)には愛宕下にも松山藩の江戸屋敷が出来、地震により道後の湯がとまっています。元禄15年(1702)には、大風により城下家屋2000戸以上が倒れ、城山の松300本が折れていています。この年には赤穂浪士の10名が三田の江戸屋敷に預けられ、翌年に切腹しました。宝永4年(1707)には大地震が起こり、またもや道後の湯がとまりますが、145日目に湯が再湧しています。

 定直は享保5年(1720)61歳で死亡しました。

歴史・江戸時代TOPへ

「今治おもしろ百科」TOPへ

ご意見・ご感想などメールの宛先はこちら