蒼社川の改修

 蒼社川は、少しの雨でも氾濫する川として知られていました。当時の川筋は大きく曲がり、広い川幅であるものの、川床も浅いため、すぐに洪水となり、水害に見舞われます。

 高虎以降、歴代の藩主も治水を行いましたが、川の流れに伴う土砂の流出が多く、川床が年々高くなり、洪水が繰り返されたのです。

 享保7年(1722)の堤防決壊を機に、2年後、各村から2人1組となって川ざらえが行われました。これは、宗門帳にのっている男性がすべて参加することを義務づけられたため、宗門堀と呼ばれ、毎年春に3日間行われました。

 宝暦元年(1751)、今治藩主・定郷は、蒼社川の改修を計画。この改修に大きな功績を残したのが河上安固です。河上安固は、延宝年間(1673〜81)から今治藩に仕えた三島大祝の一族で、その三代目にあたります。安固は、毎日、高橋の権現山に登り、水の流れや洪水の決壊箇所を眺め、どのように改修するかを考えたといいます。

 洪水ごとに川筋を変えるあばれ川を、13年かけてまっすぐにし、堤防を高くして松を植え、宗門堀の制度を強化しました。その結果、改修は効果を上げ、蒼社川はほぼ現在のような形になりました。

 安固は、呑吐樋や鳥生高下浜の唐樋なども手掛け、土木面で大きな功績を残しています。

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