一揆と義民

 江戸時代の伊予の一揆は、全国70国のうち3位という多さですが、今治藩での一揆は数が少なく、庄屋が村人のために直訴するという形式がほとんどのようです。では、そうした義民を紹介しましょう。

 まずは阿方の越智孫兵衛。寛文頃の阿方の年貢は7割で村人たちは苦しんでいました。藩主に直訴し、1割の免下げに成功しました。延命寺に供養塔が建てられています。

 松尾村の庄屋、近藤八右衛門は、寛文の干ばつで収穫が少なく、年貢上納に苦労していました。そこで八右衛門が代表で藩主の定房へ家老の久松八左衛門の悪政を訴えました。しかし、その後、野良仕事をしていた八右衛門ら5人が武士に斬られてしまいました。村人は、浄寂寺に五人衆堂を建て、供養したといいます。久松八左衛門は、家老職を召し上げられ、魚島へ遠島となっています。

 延喜村の庄屋、八木忠左衛門は、代官の悪政と重税に苦しみ、村の窮状と代官の悪行を目安箱に投げ入れました。しかし、筆跡から忠左衛門とわかり、子供とともに打ち首となりました。後任の庄屋は、祠を建て、三島神社として祀りあげました。この忠左衛門は、延喜の佐倉宗五郎として人気が高かったといいます。

 今治に一揆が少ない理由は税率が他の藩と比べて低く、藩民に連帯感があったためと思われます。今の今治もこのようだといいですね。

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