幕末の多才人・半井梧菴

 半井梧菴は、今治藩医の家に生まれています。早くして父を失い、京都へ上り、荻野徳輿の門に入って医学を学び、帰郷して今治藩医となります。西洋医学にも興味を持ち、嘉永2年(1849)、藩医の菅周庵とともに、伊予初の種痘を実施しています。

 国学にも関心を持ち、足代弘訓や海野遊翁らに国語・国歌を学び「歌格類選」「鄙の天布利」「古事記略伝」「西行日記」など数多くの著作が刊行されています。

 特に有名なのが明治5〜7年(1872〜74)、梧菴が石鉄県地理掛として松山に住んでいたときに刊行された「愛媛面影」全5巻です。序文には、慶応2年(1866)の記述があり、伊予国風土記の散逸したのを嘆いて、自らが社寺・旧跡をたずね、古文献・伝承を集成し、各郡の地理や伝承について解説しています。また、書名の愛媛は県名と大きな関係があるといわれます。

 また、明治初年に取り壊された今治城の写真を残したのも大きな功績です。維新後は、今治藩校の「克明館」の皇学助教授となり、明治5年には石鉄県地理掛、明治7年(1874)には石鎚神社の祠官となりますが、晩年は京都に住み、明治22年(1889)に70歳で亡くなりました。

 京都神楽丘とともに海禅寺にも半井梧菴の墓があります。

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