藩士がつくった島四国

 島四国八十八ヵ所は、文化4年(1807)四国八十八カ所の「写し霊場」として開設されました。今治藩の医師の家に生まれた毛利玄得、修験者の金剛院玄空、庄屋だった池田重太たちが協力して発願主となっています。 
 「島四国」は、芸予諸島の大島に設けられた札所を、毎年旧暦の3月19日から弘法大師の命日にあたる21日までの3日間に渡っておこなわれ、「へんろ市」とも呼ばれます。この島四国は、全行程63キロ。第1番札所の正覚庵から88番の濃汐庵まで番外札所を含めて108ヶ所の霊場をまわります。しかも、大島を四国に見立て、各札所の配置、地形や札所間の距離、地物までも考慮して、札所の位置を考えています。

 発願主の三人は、当初、今治藩から「衆人を騒がせた」として重罪に処されました。しかし、巡拝者は年々増え続け、やがて京都仁和寺から「大島準四国」と呼ぶことを許されています。

 各札所には、無料のお接待が残っています。また、かつては善根宿という島外からの巡拝者へ向けて自宅を宿泊所として開放するという風習が残っていたといいます。

 また、総理大臣になった池田勇人は、若いとき、難病にかかり、島四国をまわって完治したという逸話も残っています。

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