幕末の今治

 嘉永6年(1853)、ペリー率いる米国艦隊が浦賀に姿を現し、開国を求めたため、今治藩でも海防のために兵の人数や鉄砲を増やすことを余儀なくされました。そのため、保管されていた武具の点検を行い、修理を行うともに、訓練を実施しています。武具も旧来の弓や太刀に変わって、大筒・小筒を主力にするものに変更し、兵制を変化させました。

 文久2年(1862)、今治最後の藩主である10代定法が就任。財政難に際し、木綿をはじめとする専売制など積極的な殖産興業がはじめられます。

 海防計画とはいうものの、資金難もあり、蒼社川や城の近く、浅川、桜井には計画はあっても設置できず、天保山へ砲台三門を設置するのみで満足のゆくものにはなりませんでした。

 また、今治城があまりにも海岸に近く、危険であるため、鈍川の神子ノ森へ移転する計画が練られましたが、廃藩のため、実現しませんでした。

 元治元年(1864)の長州征伐では二番手の高松藩・徳島藩の援護を命じられ、出兵しています。慶応元年(1865)二度目の長州征伐では、今治藩兵は波止浜で待機し、結局、出兵することはありませんでした。

 定法は、公武の調整のため、江戸に渡り、松平容保ら幕府重臣と会談し、天皇や将軍ともまみえましたが、時代の流れには逆らえず、明治維新を迎えることになるのです。

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