はじめて空を飛んだ鯛

 かつて今治・来島の鯛は、全国に名を知られたブランドでした。激しい潮流の中で育った、身の締まった美味しい鯛。藩政時代には、幕府に鯛の塩辛や乾鯛を献上しています。春の鯛は、鯛の背中に桜の花びらが散ったような斑点が出来るため、桜鯛と呼ばれます。産卵のため、来島近辺に集まってくる脂の乗った旨い鯛を捕ろうと多くの漁船が漁に出かけます。この辺りの鯛漁は、岩戸漁法とか焚きよせ漁と呼ばれる篝火(かがりび)に集まる鯛を網するもので、季節の風物となっています。

 来島の鯛は、日本ではじめて空輸されています。昭和3年(1928)には、今治の魚を生きたまま大阪へ空輸、大阪の料亭に運ばれた記録が残っています。

 来島の鯛を空輸したのは、日本航空輸送研究所。大正11年(1922)徳島出身の井上長一氏により設立され、堺から徳島の間で小貨物や新聞、写真乾板の輸送をしていました。12年には、高松まで延長され、14年に今治まで延長。郵便定期飛行が行われています。とすれば、今治には定期飛行のための飛行場があったということになりますが、飛行機は水上機と飛行艇。そのため、大がかりな飛行場は必要がなく、今治の沖合いに着水したようです。

 昭和4年(1928)、松山と大阪を結ぶ路線に、空路が変更し、今治の飛行場は、幕を閉じることになりました。

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