愛媛県初の本格的空襲

 愛媛県への米軍空襲は、昭和20年(1945)3月18日に松山、今治へ行われていますが、本格的な爆撃をはじめて受けたのは今治市でした。

 4月26日、午前九時頃にB29の編隊があらわれ、その内の4機が攻撃を開始しました。今治駅、広小路、日吉地区、明徳女学校などに約120個の爆弾が落とされるとともに、機銃掃射を受け、死者68名、重傷者34名を出しています。その中には、明徳女学校玉井校長を含む関係者の9名、電報電話局職員の10名、警察官や消防団員も含まれています。

 二回目の今治空襲は、5月8日に約1時間の波状攻撃が行われ、今治女学校の生徒11人が姫坂山に避難しましたが、爆死。29名が死亡しています。

 8月5日には、B29数十機が飛来し、午後11時50分より2時間にわたって空襲が行われました。その前日には、空襲の予告ビラが撒かれましたが、死者454名、重傷者150名、全焼家屋8199戸、被災者3万人以上という大きな被害を受けています。この空襲により、今治市は焼夷弾により、市街地中心部の8割が焼野原となりました。

 戦後の今治復興は、県下でも早く、焼け跡より商店や家が建ち並びました。港や駅の近くにはバラックの闇市が開かれています。

 この悲惨な戦争を風化させないよう、子供たちに伝えて行かねばならないことはいうまでもありません。

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