明治維新の今治

 徳川慶喜が大政奉還を行い、明治政府になると、今治藩は新政府軍として、戊辰戦争に参加しています。また、藩主は松平から久松に名字が変わります。

 もともと、3万石の今治藩はもと譜代とはいえ、新政府には従順でした。
 明治2年(1869)全国260藩のうち、13番目に版籍奉還を申し出たため、定法は今治藩知事に任命されています。新政府の改革により、今治城は不要のものとなり、この年の10月に壊され、さまざまな資材は入札により、取り払われました。

 板垣退助を中心とする土佐藩は、四国13藩に共同出兵を相談する目的で行われた丸亀での第一回会議を皮切りに、四国金陵会議が行われました。翌年、この会議の廃止か存続かの議論が起こり、今治藩代議人・池上邦五郎は責任をとり、謎の自刃を行いました。

 明治4年7月には、廃藩置県が発令され、今治藩から今治県となります。定法は、藩士を集めて、ねぎらいの挨拶をして東京へと出発します。領民が引き留め運動を起こしていることからも、定法は藩主として領民に愛されていたことがわかります。かつての藩主は、9月に多くの見送りを受けて、船頭町を出発しました。

 その年の11月には松山・小松・西条と統合され、松山県となり、明治5年2月には松山県は石鉄県と改称。県庁は今治になり、翌年1月に移転されました。しかし、2月には南予の神山県と合併し、そして愛媛県となり3月には松山が県庁となり、今治県庁は閉庁されてしまいました。

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