綿に関する歴史

 今治地方は、昔から綿の栽培が盛んでした。奈良時代には、織物を税として納入した記録が残っています。
 17世紀後半の延宝年間には、綿花や木綿、綿実の取扱は城下の御用商人に任されていました。今治藩の記録によると綿布の生産が増え、藩でつくられた布は、大坂や尾道に出荷されています。

 この頃、商人が原綿や織機を提供し、婦女子が賃織りする形態が一般となりました。これを綿替木綿といい、今治藩第一の輸出品であったため、藩も綿替制を推進しています。問屋から500匁の実綿を預かり、木綿2反を織ります。うち1反が織賃として織った人に渡されるシステムです。

 幕末には、軍備や兵制改革などで藩に費用が必要となると、文久2年(1862)村の女性に3ヶ月に1反の綿布を織るように命じ、翌年には藩自体が綿替商となりました。

 明治維新で綿替商の指定が解除され、綿の取扱業者が増加しました。明治10年(1878)頃には機械織布が盛んとなり、手織の今治木綿は力を失いますた。明治22年(1890)には、柳瀬誠三郎氏や田坂亀二郎氏ら10人により、伊予木綿株式会社が組織され、紡績糸による生産回復が図られました。

 明治19年(1886)紀州ネルに注目した矢野七三郎は、織機四台を購入し、綿ネル製造の合資会社「興修舎」を創業します。これが伊予綿ネルのはじまりとなりました。明治21年(1889)には、村上熊太郎が今治独自の白綾ネルを考案しました。この白綾ネルは、三綾織の片毛でつくられ、柔らかく強いところが人気を呼んでいます。
 矢野七三郎は、この年のクリスマス・イブの夜、凶刃に倒れました。犯人は不明でしたが、柳瀬義富が矢野の「興修舎」の後を継ぎ、「興業舎」として、綿ネルの生産高を徐々に伸ばしていきました。

 明治23年(1891)に阿部平助も綿ネルをはじめ、明治33年(1901)、イギリスから蒸気機関によるブラットブラザース織機50台を輸入し、大手町に大工場を建設。今治で産業革命がはじまりました。柳瀬義富工場の村上工場でも、蒸気機関の織機や起毛機が据え付けられるなど、多くの工女を抱えるようになりました。

 明治末期から大正にかけて、リンネルの代用として幅広ネルが今治織物の主力となっています。また、中国、朝鮮、ロシア、東南アジアに輸出されています。

 大正から昭和にかけて、今治は、四国のマンチェスターと呼ばれ、隆盛を誇ります。マンチェスターはイギリス綿工業の産業革命の発祥地で綿業を代表する都市だったからです。

 今治の綿織物は、次第にタオル織物へと変わり、タオル産地・今治はその名を全国に知らしめます。

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