四阪島・煙害事件

 元禄3年(1690)に発見された別子銅山は、住友家の経営で採掘されました。初期には、和式精錬で、規模も小さく、亜硫酸ガスの被害も少ないものでした。そののち、明治維新となり、新政府より経営を保証された住友は、フランス人技師ルイ・ラロックの指導で施設の近代化を図りました。それに伴い、採鉱量も飛躍的に増えたのですが、問題は精錬の段階で発生する亜硫酸ガスです。明治26年(1893)新居浜市惣開に開設された洋式銅製錬所は近隣に大規模な水稲被害を発生させ、農民と精錬所との間で紛争が勃発しました。

 住友は、明治38年(1904)170万円の巨費をかけて、精練所を四阪島に移転しました。しかし、煙害は移転前よりもその範囲が拡大し、対岸の農作物に大きな煙害を引き起こしました。

 明治41年(1908)8月23日のこと。住友理事の中田錦吉と鉱業所支配人の久保無二雄たちが越智郡富田村(現・今治市)を視察した際、農民数千人が取り囲み、罵声を浴びせかけました。翌日、別宮南光坊での陳弁が行われ、一行は視察を中断しています。25日には農民5000人が今治海岸で集会を開き、抗議運動の方針を決議しています。翌日には、周桑郡の農民が集結し、住友に押し掛け、交渉は保留となっています。

 煙害を避けるためには、亜硫酸ガスを取り出すのが最良の方法なのですが、技術力の乏しい当時、大量の煙を処理することは出来ませんでした。明治42年(1909)、一流学者から構成された鉱毒調査会で「硫煙希釈法」という新技術が提案されました。高い煙突一本から放出していた煙を、数本の低い煙突で放出し、外気を混ぜて薄くして放出するというもの。こうすれば、濃度の低い煙となり、遠くへ煙の被害が出ることがないと考えられたのです。この方式の結果は、惨憺たるものでした。煙は確かに薄められるのですが、煙突の上で煙が留まり、濃度が高くなって被害が増すのです。一流学者による改善方法は、事態を更に悪化させたのです。名前だけを重視すると失敗するという一例ですね。

 明治43年(1910)、愛媛県知事伊沢多喜男氏により調停案が出されました。精錬鉱量を制限し、短期の操業停止などが講じられ、住友と東予四郡の間で、賠償協定と補償金が決定したのです。賠償金は、愛媛県に納められ、米麦専用の農事試験場である「採種場」の運営に当てられるとともに、被害額の割合で郡単位に配分されました。

 大正15年(1926)、今治市に鉄筋コンクリート二階建て、時計台のある「今治市及び越智郡波止浜町外三四箇町村組合立越智中学校」が建設されました。のちに組合立越智中学校となり、昭和19年(1944)に愛媛県立越智中学校と変わります。これが現在の今治南高校です。
 煙害は、昭和4年(1929)より、ペテルゼン式硫酸製造装置を導入し、亜硫酸ガスの発生は抑えられます。昭和14年(1939)には、硫黄酸化物をアンモニアで中和する技術が導入され、煙害問題は解決しました。

 環境の大切さが唱えられる今では、考えられない対処方法ですが、住民の意思は大切にされ、一応の解決を見ることが出来ました。住民運動が成果をおさめた例として「米百俵」とともに記憶されるべき出来事です。

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