藤原純友と水軍の関係

 「大鏡」によれば、平将門は天皇に、藤原純友は関白になるために二人比叡山で反乱を誓ったといいます。平将門は関東で、藤原純友は瀬戸内海で反乱をおこしましたが、これが世にいう承平天慶の乱です。

 伊予国司となった藤原純友は、海賊討伐を命ぜられていましたが、任期後も伊予にとどまって日振島を拠点にし、承平6年(936)海賊や農民、浮浪者を率いて挙兵しました。純友率いる約1000艘の船と2500人の海賊たちは、瀬戸内海近郊を荒し回りました。天慶2年〜3年(939〜40)には備前、摂津、讃岐、備後、太宰府などを襲いましたが、天慶4年(941)には小野好古や源経基らにより鎮圧され、純友は敗死しました。

 中央政府に対して反乱を起こした天慶の乱は、律令国家が崩壊してきたこと、海賊衆が組織化され、次第に統率されてきたことを示しています。

 藤原純友は、藤原北家の一族、筑前守大宰少弐である藤原良範の二男とも越智氏の一族で今治の高橋郷出身・高橋友久の子で良範の養子となったともいわれています。また、これを鎮圧したのも越智氏や河野氏などの伊予水軍でした。

 越智氏が武家として登場するのもこの頃。天暦2年(948)海賊を鎮圧した功により、越智周忠に叙位を許された記録が残っています。

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