源平の戦いと水軍

 源平の戦いでは、源氏に味方する河野氏のもとに水軍衆が集まり、次第に組織化されていきます。「吾妻鏡」では河野通清が平氏に反して軍兵を率いたとあり、「源平盛衰記」では冬頃より謀反を起こしたという記述があります。河野通清は、子の通信とともに伊予国府の役人でした。

 反平家の立場をとった理由は、源頼義の子供を河野家の養子にしたという話が残っているように、もともと源氏に親近感を持っていたこと。源氏の隆盛に乗じて、河野家の勢力拡大を図ろうとしたことなどが考えられます。この地域では、新居氏が平氏と組み、勢力拡大を狙っていたのです。

 源氏も平氏に対抗できる水軍を河野家に求めていました。屋島の戦いでは、兵船30隻に1000人あまりの兵を乗せて出兵し、微弱だった源氏水軍を補強して、源氏を勝利に導いています。

 平氏は、門司の壇ノ浦で最後の戦いを行います。平氏は500艘の船団を用意していましたが、対する源氏は河野水軍300艘、熊野水軍200艘を含む840艘でこれに対抗。潮流を利用して戦った戦術と仲間の裏切りにより、平氏は全滅し、河野通信は伊予の実権を握ることになります。

 源氏に勝利をもたらしたのは、激しい潮流の中で巧みな船の操縦技術を持つ河野水軍を味方につけたことが大きかったと思われます。

 河野家は、勢力を拡大しましたが、承久3年(1221)の承久の乱では、河野家のほとんどが上皇側にたちました。この戦いは、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に反対する武士を集めて挙兵したものでした。しかし、幕府側が勝利したため、河野氏の力は衰えてしまいます。

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