元寇での水軍の役割

 作家の山田智彦氏によると、元のフビライ汗は、8度の日本襲撃を考えていたといいます。実現したのは2回だけですが、日本を黄金の国と考えていて、生涯の最後まで日本占領を考えていたのでした。

 最初の元寇は、文永11年(1274)の文永の役。約3万人の大群が900艘の軍船に乗り、九州北岸に攻め入りました。敗戦濃い日本でしたが、蒙古軍は暴風により、一夜の内に敗退してしまいます。

 それから七年後、弘安4年(1281)には、14万の軍勢と3500艘の軍船が博多湾に押し寄せました。日本軍は小舟で夜襲をかけ、焼き討ちを図っています。また、先の戦さで元の強さを知った幕府は、九州沿岸に石塁を築き、あらゆる防御を施しました。

 河野水軍の将・河野通有は、石塁を背にして陣を立て、元の攻撃に対し、波打ち際で防ごうと奮戦しました。この戦いぶりは「河野の後築地」と呼ばれ、剛胆な戦いで注目されました。承久の変により家運が傾いた河野家を、なんとか復興させようとの思いだったのかもしれません。

 2度目の元寇を滅ぼしたのも、やはり大暴風でした。一夜の内に、元の船を打ち砕いたのでした。この活躍で戦功を得た河野氏は、子の通治(のちに通盛)の時代に旧領を回復し、河野氏はふたたび伊予での勢力を取り戻します。

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