戦国時代の水軍

 将軍家の相続争いに端を発した応仁の乱では、河野水軍は身内が二つに分かれて激しく争います。

 村上水軍は、河野通春につき、山名氏側の西軍。周防の大内氏の軍勢に合流し、3万の軍勢と500艘の船団で戦いに臨みました。河野水軍の内紛は、家臣団を分裂させ、しかも近国の侵入により、河野氏の力が弱まっていきました。

 因島・能島・来島に分かれた村上水軍は、それぞれの思惑で行動しています。因島村上氏は、毛利・大内などの大名につきました。能島村上氏は、河野氏に従いつつも領土には固執しませんでした。来島村上氏は、河野家臣団に組み込まれましたが、大内氏の力が衰えると河野氏との関係は希薄になりました。

 主君・大内義隆を討った陶晴賢へ戦いを挑んだ毛利元就の厳島の戦いでは、村上水軍の活躍が見られました。優勢だった陶軍の裏をかくため、嵐の日に出発した村上水軍の船には、4000人の軍勢が乗り込んでいました。時間によって変わる瀬戸内海の潮流を活用したため、嵐の中の隠密行動がとれたのです。

 村上水軍は、二手に分かれて陶軍の陣を奇襲しました。背後をつかれた陶軍は大敗し、軍船で逃げようとすると、急流の海で鍛えた来島水軍が待ちかまえ襲ってきます。陶晴賢は、対岸に渡ろうとしますが、船はなく、覚悟を決めて割腹しました。

 この戦いの勝利で、村上水軍は瀬戸内海の制海権を掌握していきます。他国との貿易や船舶を警固することで帆別銭を徴収し、財政的にもうるおった村上氏は、組織を堅牢なものに変えていきます。

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