豊臣秀吉と村上水軍

 木津川口の戦いで村上水軍の奮戦に注目した秀吉は、水軍を味方にするように工作をはじめます。天正10年(1582)、来島の村上通総は、秀吉の誘いを了承しました。そのため、秀吉に敵対する能島、因島、毛利氏の連合軍は、来島への総攻撃がおこなわれたため、村上通総は来島を脱出しました。

 二年後、織田信長の遺志を継いで天下統一をめざす秀吉は、毛利家との和議を行い、通総を来島に帰国させるよう命じます。このときに通総は、豊臣秀吉より「来嶋」の名字を与えられました。

 豊臣秀吉は、天正13年(1585)四国征伐を行い、四国全域を手中におさめました。通総は、毛利元就の三男・小早川隆景のもとで働きます。この軍功により、風早郡と野間郡で1万四4000石を得、兄・通之も風早郡に3000石を得ています。

 通総は、瀬戸内海水軍の将として、唯一の豊臣取立大名となりました。能島の村上武吉は、小早川隆景に接近して毛利氏の家臣となり、本拠地の能島を引き払い、周防の屋代島や安芸の江田島などに知行地を与えられています。

 河野水軍は、家臣に次々と離反され、四国征伐により、領土と城を全て失います。河野通直は、摂津・高野へ移った後、安芸竹原に住みますが、24歳の若さで病没し、ついに河野氏は途絶えてしまいました。

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