朝鮮出兵と水軍

 天正19年(1591)豊臣秀吉は、朝鮮出兵をおこないます。総動員数30万人。水軍は9200人というわずかな数ですが、そのうちの3分の1は伊予国の兵力でした。能島村上氏は、陸軍に組み込まれ、来嶋通総と兄の得居通之は、四国の諸大名による五番隊に組み入れられ、700人の水軍を指揮しています。

 文禄元年(1592)日本軍は、釜山に上陸して戦闘がはじまりました。水軍は、連敗を重ねます。陸軍は、平壌まで侵攻しましたが、明軍が参戦したため、日本軍の苦戦となりました。この戦いにより、得居通之は、唐頂浦で戦死しました。

 明との和平交渉は決裂し、慶長2年(1592)秀吉は、再び兵を朝鮮に送ります。総動員数14万人。来島通総は6番隊に属し、600人の軍勢で出陣しました。水軍の構成は、藤堂高虎と加藤嘉明が武将の中心でした。そのため、今回は伊予国からの水軍が主力となりました。この戦いで、通総は水営浦で戦死。朝鮮出兵で来嶋通総・通之兄弟を失い、村上水軍は、この戦いで大きな犠牲を払いました。

 朝鮮出兵は、慶長3年の秀吉の死により、撤退を余儀なくされました。家康の進言で、後の今治藩主となる藤堂高虎が朝鮮撤兵の指揮をとっています。

 この時代、海賊衆は、武将のもとで水軍として編成されました。この水軍を統治したのが加藤嘉明、藤堂高虎、長宗我部元親などの武将で、水軍大名とも呼ばれています。

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