関ヶ原以後の水軍

 慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦で、毛利輝元は西軍となり、徳川方に敵対しました。徳川方が勝利した結果、毛利家の所有していた中国8ヶ国は周防、長門2ヶ国に減封となります。

 能島の村上武吉は、輝元に従って周防に下り、大島和田で没しました。

 因島村上氏は、毛利藩に従って島を去り、その後、没落しています。

 村上水軍に属していた人たちはほとんどが土着し、周防の屋代島や芸予諸島、今治など、しまなみ沿線に居住しています。

 同様に西軍に属した来嶋康親は、水軍衆を率いて別働隊となり、東海道で兵糧を奪い取って大坂城に送ったりもしましたが、慶長6年(1601)、豊後国森藩1万4000石へ転封となりました。本多正信の取りなしもあり、比較的軽い処分で済みましたが、移封された森藩は、山間部の玖珠郡にあり、海での活躍は望むことができなくなりました。近くには天領を統治する代官が駐屯し、窮屈な生活を余儀なくされたといいます。

 康親は、日田、玖珠、速見の三郡を領し、名前を長親と改めました。しかし、重臣以外の家臣は、来島近隣に残され、やがて帰農しています。

 陸に上がった河童のように、海のない山間の地で、その名字の来嶋を「久留嶋」と改称しています。子孫は、明治維新を迎えるまで大名を続け、維新後は華族となりました。

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