高虎以前の今治の支配者

 藤堂高虎以前に今治地方を治めた領主たちはどういう人たちがいたかを調べてみました。その当時、今治の中心は国府(国分)地方であり、国分城は唐子山の山頂にあったと伝えられています。

 国分城のことが文献に出てくるのは14世紀の頃。脇屋義助が国府城に入場しています。
 永禄年間(1558〜70)の頃には唐子山の山頂を削り、能島村上氏の家臣団の居住所として国分城が築かれました。天正13年(1585)には、豊臣秀吉の四国侵攻で功のあった小早川隆景に引き渡され、15年には東予11万石の領主として、福島正則が入城してきます。

 福島正則の築いた城は、「本丸は東西九間南北二十間、二の丸は東西五十二間南北五十一間」という大きなもの。東に居城があり、北は森、周囲を石垣や土手で守り、家臣の屋敷を並べた雄大な平山城だったといいます。城下町は拝志。天守閣もあったと伝えられます。
 福島正則の治世のうち、最も力を入れたのは、秀吉の命を受けての検地と刀狩。代官地から寺社領に及ぶ厳正な検地が行われました。また、天正16年(1588)に公布された海賊取締令を受け、能島水軍の残党を取り締まっています。
 福島正則の出身は尾張国。母は、豊臣秀吉の伯母にあたり、幼少より秀吉に仕えていました。正則は、200石取からスタートし、戦さのたびに手柄をたて、出世していきます。特に賤ヶ岳の戦いでは、七本槍の一人となりました。国府時代には、文禄の役に五番隊の大将として出陣。この戦さの功で、文禄4年(1595)尾張国清洲24万石を与えられ、国府を後にしています。

 正則の後には、池田景雄が入城しました。織田信長に仕え、山崎の合戦ののちには秀吉に仕えています。国分城主の所領は7万石。正則11万石のうち、4万石は代官地となっています。
 慶長の役では、六番隊に編成されて活躍しますが、慶長3年(1598)に安骨浦で戦死しました。残された子供の秀氏は、わずか1万2000石の領地となり、その年の6月、国府から大洲に移っています。

 次に国分城主となったのは、近江出身の小川祐忠。もともとは浅井氏の家臣でしたが、織田信長の侵攻を受け、織田家直属の旗本となりました。本能寺の変ののちは、明智光秀の傘下に入りますが、三日天下の後には羽柴秀吉に仕えています。慶長の役の軍功により、東予7万石の領主として国分城に入りました。
 小川の治世は評判が悪く、粗暴な性格で領民を苦しめたといいます。
 関ヶ原の戦いでは、豊臣方の西軍に属していたのですが、小早川秀秋が東軍に寝返ると、祐忠も東軍へと立場を変えます。悪政のため、領地は没収されたといわれています。

 宇和郡7万石を治めていた藤堂高虎は、関ヶ原の戦いの戦功により、伊予半国20万石を得、国府へ入城してきました。高虎は、今治入封にあたり、国分城を捨て、新しく海岸に20万石にふさわしい城と城下町の建設をはじめます。国分城の資材も新しい城に活用され、偉容を誇った国分城の昔の姿はなくなってしまいました。

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