今治城主を断った男

 天正15年(1587)黒田官兵衛は、秀吉の九州平定で軍監としての功績を認められ、豊前八郡のうち六郡12万2000石をあたえられました。
 その所領内に、宇都宮鎮房の居城がありましたが、国替えに反発した鎮房がこれを不満とし、近辺の土豪とともに決起しました。宇都宮氏は、源頼朝の命で鎮西に降り、鎌倉時代から400年近く豊前城井城を居城とした武家の名門でした。

 秀吉は、鎮房に今治12万石への国替えを命じました。鎮房は、先祖伝来の地に所領をいただきたいと秀吉に願い出ましたが、秀吉は怒り、今治の所領を没収してしまいました。
 鎮房は、背丈6尺あまりの偉丈夫で、2尺の太刀を腰にさし、2尺8寸の大太刀を背にかけて、悠然と座したと伝えられるほどの豪力の持ち主でした。

 黒田官兵衛は、鎮房の嫡男・朝房を人質に取り、その妹・千代姫を黒田長政の妻に迎え、講和を呼びかけました。天正17年(1589)、勘兵衛の息子・長政は、鎮房を中津城へ呼び、酒宴の席で鎮房をだまし討ちにしたといいます。宇都宮家は、黒田家の陰謀により、ことごとく謀殺され、家名を断絶させられました。秀吉の命に従い、今治に居を構えていたら、宇都宮家の命運も変わっていたと思うのですが・・・・。

 また、黒田家が三代にして正統がたたれたのは、この宇都宮一族を謀殺した恨みのせいともささやかれています。

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