高虎と徳川家康の関係

 徳川家康と藤堂高虎との関係は、天正14年(1586)のこと。秀吉から京都聚楽第の地に徳川屋敷の造営を命じられ、高虎は自費で門を造営しています。高虎のつくった建物と配慮に感激した家康は、刀を感謝のしるしとして贈っています。以後、高虎と家康の間では書簡が往復され、関係が密になりました。

 秀吉の死去で、朝鮮への兵を引き上げる際、五大老は、大軍撤退の任を誰にするかを相談しました。会議の後、高虎に決定したのですが、この人選で高虎を推挙したのは家康だったのです。

 秀吉の死後、伏見に住んだ家康のもとへ、高虎は大坂の情報を頻繁に送っています。家康は、関ヶ原へ向けての準備を高虎の情報を参考に着々と進めていたようです。
 関ヶ原の前から、家康と石田三成の仲は悪く、慶長4年(1599)に三成は家康を襲撃しました。前田利家の見舞いに出掛けた家康を三成の軍が襲うとの情報を知った高虎は、家康に襲撃を知らせるとともに、乗り物を替え、家康を自分の家に迎えています。

 関ヶ原へ向け、武断派の取り込みや西軍の寝返り工作に高虎は荷担しています。文禄・慶長の役で親交を深めた武断派の面々を、高虎は石田三成への不満を武器に東軍へと誘っています。また、西軍側の小早川秀秋や脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱などへ寝返り工作を働きかけ、成功に導いています。

 関ヶ原の戦いでは、合渡川の勝利で先鞭をきった藤堂軍は、大谷吉継の軍勢と真っ正面からぶつかりました。均衡した戦いを勝利に導いたのは、寝返った武将たちでした。

 関ヶ原以後、高虎は、和歌山城、膳所城、伏見城、伊賀上野城、津城と、大坂方を包囲するように城の普請を手伝っています。

 大阪の陣では、高虎が先鋒を務め、奮戦しますが、この戦いでの高虎は、受難続きでした。徳川陣中に迷いこんだ豊臣軍の兵が、豊臣秀頼から高虎にあてた「約束した功を立てれば望みのものを与えよう」という手紙を持っていたので。これは豊臣家の策略でした。冬の陣では真田幸村らに散々に打ち負かされ、夏の陣では長宗我部盛親軍の攻撃により大きな被害を受けています。
 大坂の陣の後は五万石の加増。江戸城や二条城の普請を行っています。
 元和二年(一六一六)死に際した家康は高虎を呼んで「わしが死んだら、来世では会うことができないだろう。宗派が違うから」というと、高虎はその場で日蓮宗から家康の宗派である天台宗に改宗してしまったといいます。このことが「ごますり」「おべっか」といわれる理由なのです。
 二代将軍秀忠の娘和子と後水尾天皇との婚儀の斡旋を行い、元和六年(一六二〇)に実現させています。
 三代将軍家光の代にも日光東照宮や上野寛永寺の造営を行いました。
 高虎は徳川三代に仕え、寛永七年(一六三〇)七五歳の生涯を閉じました。藤堂高虎と徳川家の関係を振り返ると、高虎は一生懸命に家康に仕えています。外様でありながら徳川家に信頼された理由が良くわかります。

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