高虎と忍者との関係

 藤堂高虎は、徳川三代の諜報部隊の元締めといわれています。つまり、忍者の元締め。その理由は伊勢、伊賀の領主となり、忍者をうまく使ったため。高虎は家康の命を受けて、畿内の要地、国境の守りとして伊賀上野と津の二城を修改築する一方、忍びの統率を行ったのです。

 高虎が治めていた近江の甲賀郡と伊賀国は、奈良・京都という都に近接しているとともに山岳修験の霊場が数多くある土地。この地に住む人々は、山伏や修験売薬、霊符の配付などで諸国を回りました。そのため、世相、時勢に敏感で情報を集める技術に長けていました。

 忍者は、数10人の小集団を組み、行動します。忍者たちは、小集団単位で諸国に雇われ、戦闘、謀略、諜報の技術を日々、磨き上げていくことで職能集団となっていきました。

 忍者と徳川家康の関係は、本能寺の変のとき、明智光秀の追跡の手を逃れ、伊賀越えをして三河に戻ったことにはじまります。その時、活躍したのが伊賀忍者の服部半蔵で、以後、徳川家の隠密頭の地位についています。大坂の陣を勝利に導いたのも、秀忠の娘・和子が宮中に嫁いだのも、高虎の諜報活動の賜といえます。

 高虎は、忍者を無足人として採用しています。これは、一種の郷士で、普段は農耕を営みますが、仕事の際は忍者として働くのです。この方針は、高虎の死後も引き継がれました。寛永17年(1640)には服部半蔵の甥の保田妥女が、藤堂という姓を与えられて、伊賀上野城の城代になっています。

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