加藤嘉明と藤堂高虎

 加藤嘉明は、三河国に生まれ、幼名は孫六。父は徳川家に仕えた後、一向門徒に加わって尾張へと亡命しています。 しかし、父は、嘉明が6才の時、美濃国で死去しました。そのため、嘉明は諸国を流浪し、近江長浜で馬喰の下男として働かざるを得ませんでした。馬喰時代、加藤景泰にその性格と知謀を見出され、羽柴秀勝の小姓となっています。
 やがて、嘉明は秀吉の元に走り、さまざまな合戦に出陣。嘉明を有名にしたのは、賤ケ岳で七本槍に数えられたこと。以来、秀吉とともに出世していきます。

 関ヶ原の戦いの後、10万石を加増され、藤堂高虎とともに伊予半国領主となりました。慶長7年(1602)に築城工事を起工し、翌年に居を新城下に移した嘉明は、松山という名前を公にしています。
 寛永4年(1627)加藤嘉明は、松山の城下完成を前にして会津42万石への転封を命ぜられ、いやいやながら承諾。寛永8年(1631)69歳で死去しています。

 この加藤嘉明と藤堂高虎は不仲で有名でした。
 慶長の役における唐島沖の戦功をめぐっての喧嘩でした。その場のみんなが高虎の武勲を認めたというのに、嘉明は自らの武功が一番であると強硬に主張したのです。この一件で、嘉明と高虎はぎくしゃくした関係となっています。
 翌日、嘉明は、塙団右衛門直之に命じて自らの船を進め、高虎の軍を抜いて敵陣に一番乗りを果たすということも行っています。

 二人で伊予の領主になってからも同様で、家臣も仲が悪かったようです。
 慶長9年(1604)7月13日、留守役の藤堂高吉は、中元の挨拶をしたためた書状を使者に渡しました。しかし、以前から仲の悪かった同僚は使者を殺害。加藤嘉明の弟・加藤忠明が支配する拝志へと逃亡しました。
 同僚の逃亡を手伝った鷹匠を案内役とし、側近二人は拝志へ向かいました。他藩のため、逃げれば大丈夫と考えた鷹匠は、側近へ切りかかったため、切り捨てられました。ところが、これを見た町民は、今治藩の侍が拝志領の侍を切ったと勘違いし、大騒ぎになったのです。高吉は、拝志領へ真実を伝えようと使者を送りますが、槍で突き殺されてしまいました。これを聞いた高吉は、藩境の衣干砦で軍勢を用意したのですが、家老の戒めで争いとはなりませんでした。

 この結果、高虎と嘉明は幕府へ訴え、高虎の勝利となりました。拝志城代の加藤忠明は、領地を没収。忠明は仏門に入り、嵯峨東福寺へ。高虎の方にはとがめはありませんでしたが、公正を欠くと考えた高虎は、高吉に3年間の謹慎を言い渡しています。この事件を拝志騒動といいますが、同じ様な事件は他の地でも起きているようです。

 寛永4年(1627)、蒲生忠郷が25歳の若さで病死し、お家断絶となった42万石の会津藩主に、藤堂高虎は加藤嘉明を推挙しています。
 将軍秀忠が二人の関係の悪さを知っていたため、推挙の理由を聞くと、高虎は、私事と公事は話が別と答えています。会津若松城は大事な所なので、剛勇律儀な嘉明の起用をすすめたと答えています。これを知った嘉明は、不仲だった高虎に感謝しています。

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