築城名人・高虎

 藤堂高虎は築城の名手として知られています。自らの居城として、紀伊国猿岡城、宇和島城、大洲城、今治城、大三島甘崎城、伊賀上野城、津城があり、豊臣政権下では、大和郡山城、大坂城、和歌山城を手掛け、徳川政権下では江戸城、篠山城、膳所城、再築伏見城、再築丹波亀山城、淀城、再築大坂城などを築きました。
 高虎の城づくりの特長についてそのポイントを記していきましょう。


一、港を抱え込む設計
 宇和島城、膳所城、今治城、大三島甘崎城、津城、大坂城、伏見城、江戸城など城の中に港をつくり、水運や水軍を考えた城づくりを行っています。

二、枡形や方形を多用する設計
 高虎の城の本丸は、四角形の構造を基本とし、出入口には更に枡形という四角形を組み合わせます。また、馬出という堀の対岸につくられたスペースで敵の侵入を防ぎます。
 これらは四角形ではっきりした輪郭をとり、その組み合わせで自由な城郭設計ができるのが特徴です。また、虎口や馬出により、敵の侵入を防ぐという守りに強い城づくりが可能になります。

三、城のまわりに犬走りをおく
 犬走りとは石垣と堀の接するところにある1メートルほどのスペース。堀を渡ってきた敵を石垣の上から確実に鉄砲で撃つことが出来るというもの。ま堀から寄せてくる敵を、犬走りから射撃できるという利点があります。また、脆弱な地盤を安定させる効果もあります。

 高虎による城づくりの特長はどのような経緯で誕生したのでしょう。
 戦国武将としての実地経験により、どのような城が頑強であるか、どのようなまちづくり・城づくりが必要であるかを実際に体験したことが、築城名人への道をつくりました。
 高虎は、浅井長政に仕えた後、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、羽柴秀長へと主君を変えていますが、こうした人物のうち、織田信澄が高虎の築城名人となるためのよい指導者だったといわれています。織田信澄は、信長の弟・信勝を父とし、織田家の屋台骨を支える立場にいました。また、側近として数々の奉行職をつとめたため、丹羽長秀、柴田勝家などから築城のノウハウを学べる立場にいたのです。その折り、技術集団のあり方や、城づくりの資材、運搬方法工法などを学んだと考えられます。その証明として、高虎の設計手法である枡形や方形を多用する輪郭式縄張りという方法は、信澄も得意としていました。

 高虎は、秀長時代、安土城の築城に立ち会いました。安土城は、織田信長が当時の最新の技術の粋を集めた城でした。ここで最新の工法や天守閣の作り方を学んだものと思われます。

 また、水軍として朝鮮に赴いたときには、朝鮮の城、特に石垣の作り方を研究しており、また、水軍に効果的な城づくりを試してもいます。
 高虎が築城名人と呼ばれるのは、旺盛な好奇心で情報を収集し、研究し、その考え方を活かすとともに、工事における技術集団を大切にしたことに尽きると思います。名人となるには相応の経験が必要のようです。

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