今治城の秘密

 関ヶ原の戦いの後、今治地方は、藤堂高虎と加藤嘉明の領地に二分されました。特に、国分城の近くには嘉明の領地があり、国分城の位置からでは、今治地方の経営は成り立ちませんでした。国分城を捨て、海岸部に城を築かなければならない理由はここにあったのです。

 しかも、今治は瀬戸内海の交通の要衝。今治城の築城は、西国大名、備後の福島正則や松山の加藤嘉明など、旧豊臣方の動向を監視することにも、大きな目的がありました。また、有事の際は、この地方の水軍を統括し、急いで援軍を送らなければなりません。そこで海岸に面したところが選ばれたのです。

 では、今治城の特長を探ってみましょう。

 一番の特長は、この城が海の水を引いた三重の堀で囲まれ、軍港があること。海戦のための城であれば、水軍の力を最大限に生かすことができます。城の規模は3本の堀を含めて、一辺が約900メートルの正方形。城下町は、東西300メートル、南北500メートルの縄張でした。
 また、蒼社川と浅川を自然の要害とし、北の海側には強固な石塁と櫓、船入を設け、西には寺町を置きました。武家屋敷は、中堀以内に上級武士を置き、外には中・下級武士の侍町の住まいを置きました。

 もともと、今治城のある地は、吹上と呼ばれた砂丘でした。地盤が弱いため、杭を打ち込み、その上に石を並べるという方法が取られています。城の土台である石垣の隅は、石の長辺と短辺を組み合わせる算木積み。大部分は、大小さまざまの石を積んでいく野積み乱積みの方法がとられています。
 軟弱な地盤を補うため、本丸、二之丸の石垣の下に、犬走りを巡らせました。城の重量に耐える地盤の安定させる目的で今治城の犬走りはつくられています。

 城郭は、日本初の層塔型天守閣。この方法には、ゆがみのない天守台石垣と正方形の天守台をつくりあげる技術が必要でした。積み上げ形式のため、設計と施工が手間がかからず、工期の短縮が図れます。入母屋造の破風や各階の千鳥破風が省けるため、各階に武者走りを設けることが出来るのも大きなメリットです。

 現在の今治城天守閣は丹波亀山城古写真や今治城古写真、貞享・安永の今治城絵図、藤堂家の家譜「宗国史」などの資料をもとにして、城郭研究の権威者である藤岡通夫博士の指示を受けて再建されています。しかし、せっかくの再建なのに、鉄筋コンクリートでつくられているのは寂しいところです。

 今治城は、海の上に浮かぶ城として、まわりの島々からその偉容を誇りました。また、晴れた日には、遠く中国筋の山々や、しまなみの島々の風景も眺めることができました。

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