今治にも塩田があったって本当?

 波止浜の塩田は長谷部九兵衛が竹原から塩の製法を持ち帰り、塩田をひらいたのがはじまりです。

 九兵衛は、竹原の塩田から製法の秘密を持ち帰るため、浪人に身をやつして雇われ、日々の信用を得、やっとの思いで製塩技術を習得したといいます。

 波止浜に帰った長谷部は、天和2年(1682)に藩の許しを得て入り浜式の塩田づくりに着手します。波止浜地区は大規模な塩田地帯となりました。亨保の頃の塩生産量は15万石、銀にして400貫もあったといいます。これは波止浜の入り江が深く内陸に入り、海が浅いところから塩田に適していたためでした。

 江戸時代も後半になると、各地に塩田の数は増えていきました。

 戦後になると塩の製造は入り浜式から流下式になり、生産は一気に倍増します。しかし、安い海外の塩や国内市場の生産過剰により、採算が合わなくなったため、昭和34年(1959)塩田は廃止されました。

 塩田跡はゴルフ場や自動車教習所となり、昔の姿を懐かしむことは出来なくなってしまいました。

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