どうして今治にタオルが発展したの?

 今治は全国のタオルの60パーセント以上を生産しています。どうしてタオル日本一の町になったのか、理由を探ってみましょう。

 今治が京阪神という大市場に近く、交通の便がよかったことも利点でしたが、今治には、綿栽培が行われていました。織物の歴史は古く、大和朝廷に税としてこの地から布を献上した記録も残っています。
 江戸時代の今治は綿替木綿が盛んでした。「綿替木綿」とは実綿と白木綿を交換する方法で、これにより木綿の生産が増加していきました。今治の木綿は大阪で伊予木綿と呼ばれて名声を得ていたのです。しかし、明治維新がおこり、安くて品質のいい輸入木綿や紡績糸を使う播州や泉州に押されて次第に不振となっていきました。

 明治19年(1887)矢野七三郎という人物が「伊予ネル」の製造をはじめ、今治は一大繊維都市として発展していきます。明治35年の今治には1200台以上の織機がありました。

 タオルの産地になるためにはもう一人の偉人が必要でした。阿部平助氏です。タオルを今治に持ち込んだ人。綿ネル機を改良し、タオル織機としたのです。阿部氏の遺志を継ぎ、今治でタオルは育っていきます。

 大正時代、今治は「四国一の工業都市」「四国のマンチェスター」などと呼ばれ、大きな発展を遂げました。

 現在では、先晒タオル、ドビー機、ジャカードによる紋織タオル、鮮やかなプリントタオルやタオルケット、タオル素材を使ったバスローブなどの縫製品などにタオルは多様化しています。タオルの発展には織機を開発した麓常三郎氏、先晒タオルの中村忠左衛門氏など数多くの今治の人々が関わっているのです。

 今治が高級タオルを中心に生産しているのに比べ、泉州ものと呼ばれる大阪のタオルは銀行や旅館などの景品に使われるようなタオルがほとんど。量・質とも日本一のタオル産地、今治では、ミルクの繊維を使ったものや、肌触りを考えたタオルなど、新しいタオル製品の芽が育っています。

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