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愛媛が舞台の文学作品と県民性

[漱石と子規が語る松山]

夏目 漱石 (なつめ そうせき)(1867〜1916)
 小説家。
江戸牛込馬場下横町(現東京都)に生まれる。本名は金之助。帝国大学文科大学英文科(現東京大学)を卒業し、愛媛県尋常中学校(現松山東高等学校)の英語教師として松山に赴任。子規と愚陀佛庵に同居し、俳句に目覚める。ロンドン留学の後、高浜虚子のすすめで「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に連載、文名を挙げる。これが機縁で文学生活に入り「坊っちゃん」、「草枕」などを発表する。以後、朝日新聞社に入社し「三四郎」、「こゝろ」などの作品を連載し、文豪として不動の地位を築いた。熊本市の漱石記念館、熊本県天水町の漱石館、ロンドンの漱石記念館に資料展示がされている。

漱石が書いた松山

作品など

内容
坊っちゃん

 松山という地名はでてこないが、主人公は「四国辺のある中学校で数学の教師」となって赴任。その地の第一印象は、「野蛮な所」で「気のきかぬ田舎者」のいる土地。「古い前世紀の建築」の県庁、神楽坂を半分に狭くしたぐらいな道幅」の大通り。「二十五万石の城下だって高の知れたもの」「こんな所に住んで御城下だなどといばっている人間はかあいそうなものだ」「一時間歩くと見物する町もないような狭い都に住んで、ほかになんにも芸がない(中略)憐れなやつらだ」「植木鉢の楓みたような小人ができるんだ。無邪気ならいっしょに笑ってもいいが(中略)子供のくせにおつに毒気を持っている」「おれと山嵐はこの不浄な土地を離れた」

褒めているのは、「おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行くことにきめている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけはりっぱなものだ」

狩野亨吉宛書簡 道後温泉と高浜の海水浴場を褒めたあと「当地下等民のろまのくせに狡猾に御座候」
正岡子規宛書簡 「この頃愛媛県には少々愛想が尽き申し候故どこかへ巣を替へんと存候。今までは随分義理と思ひ辛抱致し候へどもただいまでは口さへあれば直ぐ動くつもりに御座候。貴君の生まれ故郷ながら余り人気のよき処では御座なく候」

作家や研究家の証言

作家・評論家

内容
井上ひさし  「当時の松山藩は、日本の幕末維新三百藩の中で一番ダサイ、馬鹿な藩なんです。『第二次長州征伐』という事件がありましたね。(中略)他藩が天下の形勢を胸算用して最後まで一兵も出さなかったのに、松山藩だけは馬鹿正直に攻め込んで、猛反撃をくらって退却、負けてしまった。勿論、ここまではいいのです。それどころか、むしろ、幕府一筋ということでほめられてもいい。ところがしばらくして、十五代藩主の松平定昭が老中職についた。大政奉還をすぐ後に控えた、もっともむずかしい時期に幕政をみることになったんですね。ところが藩の重臣たちがやめろやめろと騒ぎ出した。殿様にも定見がない。そこで一カ月足らずで老中職を降りてしまった。それも大政奉還の直後、正確には四日後ですから、将軍や親藩からも信用をなくしてしまったわけです。つまり第二次長州征伐のときの頑張りはべつに将軍家へ忠誠をつくしたわけではなく、重臣たちに天下の状勢を見る目がなかっただけ、老中職へ就職するときに多額の運動費を使い、就任して『こりゃ大変』となると、時機を弁えずに逃げてしまう。てんでなってない藩だと、天下に恥をさらしてしまった。一カ月足らずでやめちゃったわけです。それで『鳥羽伏見』の時は、大阪の梅田あたり、一番後ろの方に回される。敵の官軍からはもとより、味方の幕府軍からも馬鹿にされていたわけです。だから、漱石が松山らしき城下町のことをケチョンケチョンに言いますが、あれが当時の人には、受けたんじゃないかと思うんです」
松井利彦 「極端な四国軽視の立場を取ることで、子規に対して抱いていた主体性の無さ、精神的な負い目から脱却した」と評しています。漱石は子規の影響から抜け出すためにこの作品を書き上げ、子規の故郷・松山をめちゃくちゃに批判する必要があった。

正岡 子規 (まさおか しき)(1867〜1902)
 俳人。歌人。随筆家。
松山城下(現松山市)出身。本名常規、通称升。東京大学予備門(第一高等中学校と改称)に入学後、帰省の際に和歌や俳句を学び関心を深めていった。帝国大学文科大学(現東京大学)に入学後さらに文学熱を高め、俳句に開眼、写実的態度を確立した。明治25年の発病後も不屈の気迫で俳句や随筆などの創作や短歌の研究会を続けるとともに継承者の育成にも努め、近代文学革新の実をあげ、与謝蕪村や万葉集など埋もれていた作家や作品を発掘した。「柿くへば鐘がなるなり法隆寺」は有名。現在、松山市に市立子規記念博物館があり、資料展示がされている。

作品など

内容
『筆まかせ』
「世界と日本、日本と四国」
(明治21年)
「四国人(中略)はなかなか敏捷なるものにて殊に模倣に巧なることは古来より四国猿の名あるを見ても知るべし。学校などに在てはかなりにやれども学校を出づれば小成に安んじ、一たび挫折にあへば忽ち業を廃するに至る。故に大業をなし大名を掲げる人更になし。しかれども警察事務の如き、即ち巡査の如き役位をつとめ得ぬものはひとりもなき故、従て巡査には善きもの多く、東京を除きては他府県下に比なしといふ」
『筆まかせ』
「地方の風俗人情」(明治22年)
「伊予人は多少小ざかしき所あれども、その代り少し狡猾なるが如し。併し、この狡猾なるは松山地方よりも西に行き宇和島近辺の方甚だしきに覚ゆ(静渓先生の話に、松山よりは宇和島の方正直なりと、大阪の商人某いふ。宇和島の人は実にすこいと。すこいとは敏捷にして利にぬけめなきをいふ)」
「初夢」
(明治34年)
「今帰ったばかりサ。道後の三階というのはこれかナ。あしゃアこの辺に隠居処を建てようと思うのじゃが、何処かええ処はあるまいか」
「爰処はどうかナ」
「これではちっと地面が狭いヨ。あしゃア実は爰処で陶器をやるつもりなんだが」
「陶器とはなんぞな」
「道後に名物がないから陶器を焼いて、道後の名物としようというのヨ。お前らも道後案内という本でも拵えて、ちと他国の客をひく工面をしてはどうかな。道後の旅店なんかは三津の浜の艀の着く処へ金字の大広告をする位でなくちゃいかんヨ。も一歩進めて、宇品の埠頭に道後旅館の案内がある位でなくちゃだめだ。松山人は実に商売が下手でいかん」

獅子文六が語る南予

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