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「伊予国風土記逸文」に記録されている聖徳太子の松山は道後へ高麗僧恵慈を伴っての来訪。596年に温泉を称え碑文を伊佐爾波岡に建てたと書かれています。
内147文字からなる文章は効用あらたかな温泉を神の温泉と称え、温泉の周りの環境を褒めたたえたもの。「神の湯を囲んで椿が枝を交えて繁り、緞帳をたれて、蓋を差しかざしているようだ。茂みの中では小鳥のさえずりが極楽鳥のように聞こえ、小鳥の声はなんとも心地よい。真紅の椿は濃い緑の葉を重ねて、湯壷の上を被い、温泉に影を映している」というもの。
この碑文がどこにあるか、幻の碑石を求めている人が多くいます。半井梧庵の「愛媛面影」によると寛政年間の頃、付近の畑で不浄を忌む畑があるのを知った人が穴を掘ったところ、碑石が出てきました。しかし、そのために温泉の湯が濁りはじめたため、そのまま埋めました。松山の風流人、富田狸通さんのお父さんである富田喜平さんは、碑石を求めて私財を投じ、半生を賭けた人です。喜平さんは神のお告げを聞き、伊佐爾波神社へ登る石段の73段目を掘ってみました。さびた刀は出てきましたが、碑石は出てきません。伊佐爾波神社の拝殿近くや石手寺の橋、放生池も探してみました。息子さんの狸通さんも遺言とばかり碑石を探したのです。幕末に久松家の家老、水野某に藩主が碑を隠し持っていたという噂を聞き、北海道まで問い合わせもしたそうです。江戸時代に書で有名な明月和尚が義安寺の薬師如来堂の下を調べたのが一番古い発掘ですが現在に至っても発見することは出来ていません。
こうした思いを集めて、椿湯の庭にみかげ石の碑が立ちました。碑文は郷土史家の景浦稚桃氏によるものです。
参考資料/道後温泉 松山市
道後物語 朝日新聞松山支局 愛媛文化双書
わが町道後 道後中学
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