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山路一善は松山藩士山路一審の三男。兄に愛媛教育会の重鎮、愛媛県師範学校長の山路一遊と日本興業銀行副総裁の佃一予。松山中学を卒業して、明治19年(1986)日本海大海戦の名参謀、秋山真之と同期に海軍兵学校へ入校します。日本海大海戦にも駆逐艦長として参戦。のち、飛行機操縦法、海軍用飛行機の制式及びその他の航空術に関する事項を研究する委員会の長となります。
委員会を設置してから、5ヶ月後に金子大尉と河野大尉が帰国し、ファルマン機とカーチス機が到着。大正元年(1912)試験飛行を行ったのが日本海軍最初の飛行となりました。12月から欧米出張を命ぜられ、航空関係の視察を行い、自軍の参考としました。大正2年には演習に飛行機が参加。運送船の若宮丸が使われ、これが航空母艦第一号です。次いで、第一次世界大戦がぼっ発すると、大正3年にはファルマン4機を搭載し、青島攻略戦に参加し、偵察爆撃に多大な功績を残しました。このような海軍航空に関する動きは山路大佐が海軍当局に建議して可能となりました。山路一善は海軍航空の発展に寄与すること多大。まさに生みの親と言えます。
山路一善は第一次世界大戦では第一艦隊参謀長、次いで第三特務艦隊司令官となり、オーストラリア、ニュージーランド方面の防衛に武功をたてています。最終は海軍中将となりました。
参考資料/松山空港物語 高田英夫著 (株)SPC
愛媛の将軍 井上坤著
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