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明治21年(1888)10月23日、小林信近(1842〜1918)らの手により松山〜三津間の鉄道が誕生しました。鉄道では現在のJR、現在の南海電車に次ぎ全国で三番目。レールの幅が2フィート6インチと狭い軽便鉄道では日本初の快挙です。夏目漱石の「坊っちゃん」で「乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない」と紹介されてから「坊っちゃん列車」と呼ばれるようになりました。
最初の機関車はドイツから購入したものでした。12人乗りの客車を引いて松山から三津浜が27分で運賃が3銭5厘。一日10往復で2000人を運びます。
もともとは木材を三津の港に運ぶのが目的でした。当時、松山から三津浜の間は道路事情が悪く、運賃も大阪までの費用より高くついたのです。費用がかからず、規模が少なくて住む軽便鉄道の利用を思い立ち、ときの鉄道局へ敷設願いを出したのですが、なかなか聞き入れてくれません。当時は官線が新橋-横浜間、京都-神戸間。会社線も大阪-堺しか開通していませんでした。小林信近は鉄道局を何度も訪ね、ついに許可されたのでした。
その後、道後鉄道、南予鉄道が誕生しますが、最終的には伊予鉄道が2社を吸収合併。明治44年(1911)8月8日、一番町〜道後〜古町が電化され、「坊っちゃん電車」が登場します。伊予鉄に対抗しようと道後〜江ノ口に松山電気軌道会社が誕生し、壮絶な競争を開始されました。料金の大幅値引き、景品、鐘を鳴らしての客取り合戦が繰り広げられましたが、結局、大正10年(1921)伊予鉄道が松山電気軌道を併合してケリがつきました。伊予鉄道は現在バスや不動産、デパート経営など伊予鉄グループを形成しています。
小林信近は天保13年、松山藩の儒者、中島漢山の子どもとして生まれました。自由民権運動を唱え、共耕社という政党を組織し、県議会議院に選出、議長まで務めています。また、前に述べた伊予鉄道や松山水力発電会社、第五十二銀行(後の伊予銀行)、伊予製紙会社など地域発展のために身を捧げています。しかし、これらの事業は成功すると他の人に譲り、自分は新しい事業に取り組むという方法をとったため、犠牲と損失が多く、老年は不遇の人生を送っています。
参考資料/愛媛の明治・大正史 高市盛周著 愛媛文化双書
伊予史あらかると 景浦勉著 愛媛文化双書
松山百点172 えひめリビング新聞社
愛媛県百科大事典 愛媛新聞社
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