|
弘法大師が四国を巡錫されたときのこと。荏原へ立ち寄り、家々を訪れて布施をお願いしました。この村には河野家の一族でどん欲な富豪の衛門三郎というものがおりました。弘法大師が門前に立ち、布施を頼んだ時、三郎は大師の持っていた鉄鉢をたたき落としました。その鉢は八つに割れ、大師の姿も見えなくなったといいます。衛門三郎は八人の子供がありましたが、その翌日から子供達が次々に死に、八日間で八人の子供が亡くなってしまったのです。さすがに強欲で冷徹な三郎も衝撃を受けるとともに、自分が乱暴した僧侶が弘法大師であったことに気付きます。懺悔の気持ちを持ち、大師を追いかけ、四国各地を廻りますが、旅路の疲れで病に冒されました。阿波の焼山寺のふもとだったといいます。死を待つばかりとなった三郎の前に弘法大師が現れました。三郎は今までの非を詫び、来世には国司の家に生まれたいという望みを残して死んでしまいました。大師は道ばたの石をとって衛門三郎と書いて、左の手に握らせました。
翌年、道後の領主、河野息利の妻が子供を生みました。その子は左手を固く握って開きません。父母は心配して安養寺の住職に加持をしてもらうと、手を開きました。すると中から石が転げ出て、石には衛門三郎と書いてあったのだそうです。その子は15歳で家督を継ぎ、人民を慈しみ偉大な功績をあげたそうです。
そして河野家に代々伝わるその石を一遍上人の代に河野家の菩提寺、安養寺に納め、南北朝時代にはその故事にちなんで石手寺と称されるようになったのです。
衛門三郎と刻んだ石は玉の石と呼ばれ、寺の宝となっています。
この衛門三郎の伝説が遍路のはじまりとして広く知られています。この伝説は「伊予二名集」「豫陽郡郷俚諺集」「愛媛之面影」などに書かれています。
四国遍路の風習は平安時代からありましたが、88ケ所になったのは室町時代から。遍路が「同行二人」という札を納めて廻ったところから札所という名称が生まれています。
参考資料/伊予史あらかると 景浦勉著 愛媛文化双書
愛媛の文学散歩3 秋田忠俊著 愛媛文化双書
|