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鎖国時代に西洋の学問のオーソリティがいました。蘭学者たちです。18世紀おわりの頃、有名な杉田玄白たちの手になる「ターフェル・アナトミア」の翻訳「解体新書」の出版や平賀源内によるエレキテルの完成がありました。こうした蘭学の世界で日本初の物理学書を著したのが松山出身の青地林宗(1775〜1833)です。
松山藩医の家系に生まれ、20歳の時、杉田玄白の門に入り蘭学の研究に力を傾けます。しかし、26歳で父の快庵(?〜1800)が亡くなったため、松山へ帰ります。その後、5年間は松山藩に勤め、藩主から長崎探題の役職を用意されたのですが松山藩を辞し、蘭学の勉強に大阪・長崎へと赴きます。勉学を重ねた後、江戸に帰り、48歳で天文台の翻訳方となり活躍。その後3年で「気海観瀾」を著します。この内容はオランダの自然科学書の翻訳で引力・圧力・光・音・水・気化等の物理学的な説明に始まり、初期の原子論や落下運動・気象に関する解説がなされています。また、電気の分野でも動電気を最初に紹介しています。平賀源内のエレキテルは静電気を活用したもの。電気をためる方法として電池も紹介しています。これが本邦初の物理学書でした。「我が国に物理の学あるは青地林宗の気海観瀾をもってはじめとす」と高く評価されています。この言葉を裏付けるものは明治初年の小学校物理教科書の内容は「気海観瀾」と一致しているそうです。まさに、日本物理学の基礎となっているのです。
苑年後、林宗はオランダの万国地誌を翻訳し、この当時最も完備した地誌「万国輿地誌」65巻を著します。58歳の時、15代将軍慶喜の父、水戸藩主の徳川斉昭に招かれます。斉昭は林宗を称し「林宗は天文台の御用を勤めている日本一の蘭学者であって、蘭学者は林宗に限る」と賞賛しています。
林宗は蘭学者・科学者として西洋の近代物理学や世界各国の情勢を紹介し、当時の日本に大きな影響を与えています。著書は「気海観瀾」「万国輿地誌」の他に「医学集成」や「居家備用」「奉使日本紀行」「依百乙薬性論」等があります。
林宗の墓と頌徳碑が来迎寺にあります。
参考資料/伊予史あらかると 景浦 勉 愛媛文花双書
愛媛県百科大事典 愛媛新聞社
ふるさと勝山 松山市立勝山中学校
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