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明治以後、松山に全国で最初の俘虜収容所が開設されました。日清戦争では清国の捕虜が92人、日露戦争では 多い時には4000人、延べ6019人が収容されていました。
明治37年(1904)ロシア軍捕虜として22名の傷病水兵が松山捕虜収容所へ送られてきました。出迎えには地元の名士や関係者が多数出迎え、坊っちゃん列車の一等車に捕虜、市長以下は三等車だったといいます。ロシア軍捕虜は雲祥寺や来迎寺、大林寺、正宗寺、松山公会堂、城北練兵場などに収容されていました。
待遇は松山公会堂から半径一里以内は自由行動。将校は市内居住まで許され、梅津寺の海水浴や芝居見物、道後温泉への入浴等が認められています。バーグ条約による博愛処遇で将校の妻子呼び寄せも16組もあったといいます。ロシア軍兵士が投降する時「マツヤマ」と叫んだといわれるのはこのようなあたたかい処遇が原因だったのかも知れません。
送り込まれてきた捕虜兵は豊かな軍資金を持っており、「捕虜景気」と呼ばれるほど市内は繁昌したのです。以後、約6000人が松山捕虜収容所に送られましたが、ワシリ−ボイスマン海軍大佐をはじめとする98人のロシア兵士が松山で亡くなっています。この人たちの御霊は御幸町の来迎寺の境内に墓地があり、ロシアの方向、北向きに建てられています。
この俘虜収容所を調べ、博愛の精神を全国に知らしめたのが才神時雄の「松山収容所」(中公新書)です。ぜひ一度ご一読のほど。
参考資料/松山収容所 才神時雄 中公新書
松山百点169 えひめリビング新聞社
愛媛県百科大事典 愛媛新聞社
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