|
司馬遼太郎が「街道をゆく・南伊予・西土佐の道」で「日本の河川で人名がついているのはこの川(重信川)だけではないか」と書いてあります。その言に倣い、日本唯一とさせていただく次第。
さて、重信川は加藤嘉明の御代までは現在の流れではなかったのです。また、名前も伊予川と言っていました。文禄四年(1595)加藤嘉明(1563〜1631)は淡路国志賀城から松木城六万石に赴任してきます。慶長六年(1600)関ヶ原の戦いの功労によりニ○万石に加増されました。松木城は海辺に近いため、波風の襲来を受けやすく、周辺部も手狭なため、他の地に移転することに決めました。そこで伊予川・湯山川の大改修に着手しました。目的は伊予川の氾濫を防ぎ、要害に備え、城下町の繁栄を促し、近在の田畑の灌漑に活用しようと考えたのです。湯山川の流域を南に変え、その末流を伊予川に合流させました。この功績により伊予川が重信川と呼ばれるようになったのです。
築城工事には様々な逸話が生まれています。まずは松木地域から魚類を販売する婦人たちを「おたた」と呼びますが、この人たちを活用しました。小砂を入れた桶を頭にのせて正木から松山まで運ぶのです。「永いものぞな 松前のかづら 蔓は松前に 葉は松山へ 花はお江戸の城で咲く」と唄って労役に従事したといいます。この桶を御料櫃=ごろびつといい、この労苦をねぎらうため、おたたは城下を自由に出入りできることになりました。また、加藤嘉明の夫人、お万の方は今の松山市役所あたり、八股に立ち、握り飯を配り志気を高めたといいます。
足立重信にはもう一つの逸話があります。それは瓦を山の上に運ぶにあたって、近郊の農家より人をたのみ、人垣を作らせ、手ぐり渡しで一夜の内に全部を運ばせて嘉明を驚かせた、といいます。知恵者の面目躍如といったところです。
参考資料/松山城 松山市
伊予史あらかると 景浦勉著 愛媛文化双書
|