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姫路城、和歌山城と並ぶ日本三大連立平山城のひとつ、松山城は加藤嘉明(1563〜1631)により、慶長7年(1602)より築城を開始し、慶長19年(1614)にほぼ完成しています。この連立平山城とは天守閣にニ基以上の小天守閣がつき、連結しているものを連立式、丘陵に築かれ周囲に平地を取り入れた城を平山城といいます。また、三大平城として姫路城、熊本城に並び挙げられています。
築城に関しては面白い伝説が残っています。正木(松前)から城を移す時、幕府へ勝山、天山、御幸山の三つの候補地を上申したのですが、当時の幕府は一番の候補より二番の候補を選ぶ傾向があったため、勝山を二番目にし見事、希望の許可を得たといいます。
勝山は二つないし三つの峰に分かれていたのですが、峰を切りくずし、谷を埋め、広い山頂としました。現在の標高は132mです。松山という名前は勝山には松の木が多く生えていたこと、勝山に神社があったため、そのままの名前では恐れ多いこと、加えて幕府の松平家の「松」をいただき、松山にした、といわれています。幕府より「松」をいただいたのは会津若松などの例があります。
城主は加藤嘉明から寛永4年(1627)蒲生忠知(1605〜1634)となりましたが忠知が急死、後継ぎがなく、寛永12年(1635)伊勢桑名より松平定行(1587〜1668)が移封、以後久松松平家が十五代に渡り松山を治めます。その間に加藤嘉明は五層の天守閣として造りましたが、寛永19年(1642)、三層の天守に改めました。そして、天明4年(1784)落雷で焼失しましたが、安政元年(1854)再建され、現在に至っています。
松山城は昭和10年に国宝に指定されていましたが、昭和25年の文化財保護法の公布に伴い、重要文化財の指定となり、城跡は国指定の史蹟となりました。重要文化財指定は天守、三の門南櫓、ニの門南櫓、一の門南櫓、乾櫓、野原櫓、仕切門、三の門、ニの門、一の門、紫竹門、隠門、隠門続櫓、戸無門、仕切門内塀、三の門東塀、筋鉄門東塀、ニの門東塀、紫竹門東塀、紫竹門西塀の21棟。空襲により、焼失した馬具櫓、小天守閣、筒井門、太鼓門、太鼓櫓、天神櫓、乾門、艮門、巽門などが再建され、ほぼ完全に復元されました。
松山のシンボルとしてこんもりとした城山にそびえる天守の白壁は市民の誇りです。桜の季節、新緑の季節、紅葉の季節と折々の自然の移り変わりを見せてくれるその姿は歴史遺産としてかけがえのない財産と相まってこれからも大切にしたい存在なのです。
参考資料/松山城 松山市
松山百点201 (株)えひめリビング新聞
るるぶ松山道後 JTB
日本名城紀行6四国・九州 小学館
日本名城総覧 新人物往来社
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