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四国の夏を彩る祭というと香川県の高松まつり、高知県のよさこい祭、徳島県の阿波踊り、そして愛媛県の松山まつり。これらを称して四国四大まつりといいます。
「松山まつり」が始まったのは昭和41年(1966)のこと。その当時は「松山おどり」と呼ばれていました。しかも、繰り広げられる踊りは野球拳ではなく他の踊りだったのです。その踊りは「伊予の松山鼓踊り」。能の舞いをヒントに考案されたマンボ調の踊りです。また、現在も続いている松山まつりのページェント「ミュージックナイター」(最初はミュージカルナイター)は第三回の昭和43年(1968)から。音楽隊の演奏や民踊、花火の組み合わせによる四国初のユニークな催しでした。
「伊予の松山鼓踊り」は新作ということで市民に溶け込むことが難しかったためか、第五回の昭和45年(1970)「野球拳おどり」に変わります。昭和47年(1972)の第七回から名称が「松山まつり」となります。この第七回はビックイベント、花火大会が登場します。PL教団が主催する「PL花火芸術大会」です。松山出身の御木徳一初代教祖を偲んで開催されていた花火大会を「松山まつり」の前夜祭の行事としたのでした。
第八回(1973)からは堀之内に夜店がオープン。以後、堀之内はお祭り広場となり、野外コンサートやチャリティバザー、フリーマーケットなどが開催されることとなります。
第十回(1975)には伊予万歳の三番叟を現代風にアレンジした「新伊予万歳」が登場しますが、定着しませんでした。第十四回(1979)には市制90周年を記念して太鼓作曲家の畑中健三氏作曲の「伊予之国 松山水軍太鼓」が登場し、以後よく演奏されます。
花火大会は昭和56年(1981)の第十六回には残念ながら中止。その穴埋めとして女性が主役の「樽みこし」が催され、第ニ五回まで続きました。
市民の要望も花火大会の再会を望んだため、昭和58年(1983)の第十八回からは南海放送が主催し、松山まつり前夜祭としてサンパーク南の重信川河川敷で開催されています。
第ニ十回(1985)には富くじ抽選付きの「松山藩札」が発行され、まつりを盛り上げました。
松山市制百周年記念の年、第ニ四回(1989)からは「野球サンバ」(作曲・ダン池田)も加わり、サンバとなった野球拳のリズムに本場ブラジルからのサンバチームも参加、まつりの夜は熱気に包まれました。
平成12年(2000)には35周年を迎え、毎年、様々な趣向をこらし約60万人を集める夏の祭典「松山まつり」。これからもますます発展し続けるようです。
参考資料/踊りャんせ!野球拳 松山まつり実行委員会 愛媛新聞社
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