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久留米絣、備後絣と並んで三大絣のひとつ、伊予絣が産み出されるためには二人の力が必要でした。一人は菊屋新助(1773〜1835)。波方出身の新助は松山城下に出、松前町に伊予縞を作る織屋を開業します。当時の機は不完全で生産効率が悪いことを新助は気にしていました。そこで西陣から高機(たかはた)を取り寄せたのですが、複雑すぎ木綿織には不向きでした。新助は改良に改良を加え、伊予縞の生産を向上できる機を作り上げました。この機を城下の下級武士に貸与し、量産化を図るとともに藩からの資金貸し付けを嘆願し、融通を受けることが出来ました。このことにより、伊予縞は販路が拡大し、伊予結城と呼ばれるようになりました。新助が考案した高機は鍵谷カナにより、伊予絣の生産に使われることになります。
菊屋新助の墓は木屋町の円福寺に、頌徳碑は道後公園にあります。
鍵谷カナ(1782〜1864)は垣生の今出(いまず)の生まれ。伊予絣を生み出すきっかけは藁葺き屋根のふき替えの時だといいます。押し竹の縄に括られた部分の藁は白く、陽に当たっていた藁は褐色に変わり、綺麗な模様が出来ていました。この模様を布にできないか、と考えた結果が伊予絣という訳です。享和年間に伊予絣が作られたといいますから、久留米絣よりも早く完成していたことになります。
絣の模様をつけるには糸の束を縛り、模様の箇所にする場所を染まらないようにします。好みの模様を出すために経糸と緯糸を計算して縛っていくのです。複雑な模様になるほど手間を要し、「かすれ」が味になります。この「かすれ」が絣の語源だといいます。現在は日常で絣を使うことはほとんどなく、多くは土産物。明治半ばから生産量が全国一位だったことが夢のようです。
鍵谷カナの墓は西垣生の長楽寺、胸像が伊予かすり会館の玄関横にあります。
また、絣の製造過程や歴史をもっと知りたい方は伊予かすり会館へどうぞ。
参考資料/愛媛の明治・大正史 高市盛周著 愛媛文化双書
ふるさと勝山 松山市立勝山中学校
松山百点168 えひめリビング新聞社
愛媛県百科大事典 愛媛新聞社
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