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松平家が愛したからでしょうか、能は今でも松山に生きています。
松山は松平家が統治していましたので、幕府の方針として能楽を儀式用の芸能として保護しました。ニ代将軍秀忠、三代将軍家光が喜多流の能を好みましたので、松山藩ではシテ方に喜多流を採用しています。松山11代藩主松平定通はワキ方に下掛宝生流を好んでいます。藩政時代の松山城には二の丸と三の丸に能舞台があったそうです。
明治維新に際し、藩主の所蔵する能面、能装束が競売に出されることになりました。このとき、高浜虚子の父、池内信夫と正岡子規のおじ歌原良七、藤野漸が保存のために奔走しています。能道具は東雲神社に奉納されることとなりました。現在、この衣装や能面は「東雲さんのお能」で見ることが出来ます。県指定の文化財。能面は室町時代から江戸時代の中期、狂言面や衣装は桃山時代から江戸時代中期のものが多いようです。能面153面、狂言面42面、能衣装110点が保存されています。
東雲神社では正月3日と春に薪能が舞われれます。これは明治8年(1875)から始まっています。その頃、味酒にあった能舞台が東雲神社本殿北側に移転し、1月3日の松囃子の神事と春夏2回の神能が催されるようになりました。明治の終わりに改築されましたが、昭和20(1945)年の戦災で焼失。戦後は長く神能が中断されていました。現在の能舞台は昭和50年(1975)に建てられたものです。以後、神能が催されています。
他に能舞台は松山市民会館に能楽堂、大和屋や二の丸公園にあり、薪能などが行われています。
また、高浜虚子や河東碧梧桐、内藤鳴雪、藤野漸ら、俳句の巨頭たちは能の名手でもあったといいます。高浜虚子のお兄さんである池内信嘉(1858〜1934)は能の功労者。明治35年(1902)上京し、雑誌「能楽」を発刊し、後継者の育成につとめています。後に、東京音楽大学の教授となり、日本能楽の再建に大きく貢献しています。能楽の重鎮、金子亀五郎(喜多流)、川崎九淵(太鼓)、宝生弥一(ワキ)たちの松山出身者を指導・庇護したことでも知られています。
松山出身の人間国宝として、古川七郎さん(狂言)、金子匡一さん(シテ)がいらっしゃるのは郷土の誇りです。
参考資料/愛媛県百科大事典 愛媛新聞社
伊予風土記 松山中央放送局
松山百点175 えひめリビング新聞社
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