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松山はお金、それもお札に縁があるのです。では、その理由を検証していきましょう。
まずは旧千円札の伊藤博文(1841〜1909)。初代内閣総理大臣の伊藤博文は明治42年(1909)に松山へ来訪。道後公園における歓迎会で「余の祖先は伊予の出なり・・・」と演説しています。ちなみに伊藤は伊予の豪族、河野氏の出身で松山の桑原にあった淡路ヶ峠城主・林淡路守通起十世の子孫にあたります。
旧五千円・一万円札の聖徳太子に関しては「伊予国風土記」に記されているように596年、高麗僧の恵慈を伴い道後を訪れ、伊予の湯を褒め称えた日本最古の金石文を残しています。この内容は神の温泉を囲んで椿が繁り、さながら楽園のよう、と道後温泉を絶賛しています。
千円札の夏目漱石は皆さんご存知の「坊っちゃん」の作者。小説では道後温泉(住田の湯)を手放しで褒め、湯槽で泳ぎ、「泳ぐべからず」の看板が出たとも道後温泉神の湯には現在もその看板が残っています。(小説にならい、作成されました)
五千円札の新渡戸稲造(1862〜1933)は岩手県出身。農法学博士。教育者であり、国際的な平和論者です。昭和7年、新渡戸は愛媛県下を講演で回りました。そのとき、松山で新聞のインタビューを受け、「将来、日本を滅ぼすものは軍部、軍閥・・・」と語りました。新渡戸はこの言により公職を辞し、民間人として日本の国際関係の緩和につとめようとしますが、翌年、カナダで客死します。札幌農学校時代の教え子で松山農学校の校長となった菅菊太郎や余土村村長の森盲天外が書いた「一粒米」を通じ、松山とは親交があったのです。
一万円札の福沢諭吉はというと直接の関係ではないのですが、「坂の上の雲」の主人公の一人、秋山好古陸軍大将が大の慶応ファン。息子を慶応に通わせています。また、松山中学校の前身、松山英学所の初代所長、草間時福が慶応義塾出身。福沢諭吉の意志を反映し、民権意識の高揚に尽力しています。
さて、ミレニアム発行となった二千円札の紫式部。源氏物語に道後温泉が登場します。空蝉の巻の伊予之介の妻・空蝉と軒端荻の会話の中、夕顔の巻でも数の多い例えとして伊予の湯桁のことが出てきます。
このようにお札と関係が深い松山市。この関係のように財政面でも上手くゆくことを願います。
参考資料/松山百点180 えひめリビング新聞社
愛媛県百科大事典 愛媛新聞社
ふるさと勝山 松山市勝山中学校
道後温泉 松山市
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