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松山に縁のある二人の俳優、丸山定夫と井上正夫。この二人がともに団十郎と呼ばれています。かたや新劇、かたや新派。どちらも団十郎にまけない名優です。
丸山定夫(1901〜1945)は松山市北京町(二番町)で生まれました。父常次は海南新聞の主筆でしたが、小学2年の時、死亡。以後、銀行の給仕、どさ回りの劇団等を転々としています。大正13年、築地小劇場の研究生として参加し、新劇人となりました。時に23歳。築地小劇場第一回公演「海戦」の開幕を告げるドラの音を鳴らしたのがこの丸山でした。丸山は第2回公演「狼」でデビューし、以後「どん底」の巡礼ルカ役で評判になります。
映画やラジオドラマに出演し、ユニークな芸風は「新劇の団十郎」と呼ばれています。また、舞台を通じて喜劇王、榎本健一と親友であり、小林信彦著「日本の喜劇人」によると「丸山はとんでもないクサイ芝居をするので新劇にいった方がいいよ、といってたものだが(中略)新劇の団十郎といわれるほどの名優となった」と榎本健一が丸山定夫について語っています。
昭和20年、巡礼慰問中の広島で園井恵子など9名で構成された桜隊を率いて原爆にあい、犠牲となりました。広島と東京目黒の羅漢寺に桜隊原爆殉難碑、かまくらの妙隆寺に丸山定夫碑があります。
井上正夫(1881〜1950)は砥部町生まれ。小さい時から芝居好きで、役者に憧れ、16歳の時、初舞台を松山の新栄座で踏んでいます。田舎回りの日々を過ごし、上京。明治38年、真砂座での「女夫浪」で認められ、以後順調な新派人生を歩みます。また、昭和11年には井上演劇道場を作り、岡田嘉子らの俳優、北条秀司らの脚本家など多くの人材を育てました。
井上正夫の台詞には伊予訛りが抜けませんでした。そこで誰がいったか「伊予弁の団十郎」。但し、その訛りが井上に対し、親しみを抱かせ、スターとなっていった最大の理由でもあるのです。
井上は余技として書画を嗜み、数多くの絵手紙を残していますが、富岡鉄斎の弟子、安藤耕斎や本郷洋画研究所などで本格的に絵を学んでいます。
井上正夫会では先人を偲んで毎年2月7日に如月忌を行っています。また、松山市駅前と砥部中央公民館前に胸像が建てられています。
参考資料/松山百点180 えひめリビング新聞社
愛媛県百科大事典 愛媛新聞社
明治を生きた松山ゆかりのヒーローたち・パンフレット 松山市
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