伊予かんの歴史

もしかしたら長州かんと呼ばれていた?

 伊予柑は、もともと山口県萩の中村正路氏が発見した穴門みかんと呼ぶ果物だった。伊予という名前がついていても、山口県産だったのである。松山で栽培するために、この果物を持ち帰ったのが持田の庄屋の息子、三好保徳氏。

 当時のお金で50円というから、現在の価格価値では500万円ほどのお金を出し、苗木を購入。この苗木は、継ぎ木されて、近隣の農家へ無償で配られていった。三好氏は、伊予柑以外にも様々な果実栽培を行い、梨や桃、リンゴの栽培も手がけ、果樹園芸の普及に尽力した。三好氏はハイカラで、明治30年代には自転車を乗り回していたという。

 現在のような伊予柑が誕生するには、昭和40年代の後半まで待たなければならない。平田町の宮内義正氏が発見した伊予柑の枝変わり「宮内伊予柑」は、20日ほど早く熟し、皮が薄く実のつきやなりが良いため、今では伊予柑といえば「宮内伊予柑」を指すようになった。

 伊予柑に伊予の文字が冠するようになったのは、三好保徳氏と宮内義正氏の尽力があればこそ。伊予柑ならぬ長州柑や萩柑と呼ばれていたかも知れない。

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