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鶏は太古から我々にとって身近な存在だった。
古墳の副葬物として鶏を形取った埴輪が出土されていることや「万葉集」に東の枕詞として「鶏が鳴く」があることからも、鶏が当時の人々に親しまれていたことが解る。古事記での天照大神を呼び戻すために「常世の長鳴鳥」として鶏が登場しているように、刻を告げる役割が中心だったようだ。太陽神の代用として信仰の対象となっていた。
また、天武天皇の御代、西暦六七五年に牛・馬・犬・猿・鶏の食用禁止令が出されているが、これこそ、鶏が食用とされていた証。食用禁止令は仏教信仰を名分として出されているが、猪や雉などは禁止されていない。家畜は食べてはならない、というところから実際は牛馬の軍事・農業への活用が主な目的だったようだ。
この詔勅以来、近世に至るまで食用の鳥と言えば、野鳥に限られていた。しかも卵を食べだしたのは江戸時代になってから。平安時代は「卵を食べると地獄に堕ちる」とまでいわれていた。
野鳥の中でも雉(キジ)は重用されており、一四世紀吉田兼好の「徒然草」に「魚は鯉、鳥は雉」と書かれ、一五世紀の「四条流包丁書」にも「鳥といえば雉のこと也」と書かれている。
肝心の焼鳥が料理書に現れるのは寛永二○年(一六四三)の「料理物語」。この書には鶏が食材として挙げられており、「汁 いり鳥 さしみ めしにも 玉子はふわふわ ふのやき みの煮 丸煮 かまぼこ そうめん ねり酒 いろいろ」と調理法が書かれてある。また、串焼に向く鳥として「雁(かり)・鴨(かも)・雉・鷺(さぎ)・鶉(うずら)・雲雀(ひばり)・水鶏(くいな)」、焼鳥に向く鳥として「山鳥・鸞(ばん)」を挙げている。
信長・秀吉の頃となるとヨーロッパの宣教師や商人の影響により、鶏肉が日本人の食卓に並ぶようになる。肉の禁止令は出ていたが江戸時代になると幕府や諸藩によって奨励され、鶏の飼育が広まった。
「合類日用料理抄」(一六八九)には焼鳥の調理方法が描かれている。「鳥を串にさし 薄霜ほどに塩をふりかけ焼き申し候 よく焼き申し時分 醤油の中へ酒を少加え 右の焼鳥をつけ 又一変付けて其の醤油の乾かぬ内に 座敷へ出し申し候」とある。
江戸時代の初期には焼鳥の料理法はほぼ完成していたようだ。
今治地方において此山の鶏を領主の久松家に献上した話や高橋地区の鶉(うずら)が名産とされていたこと、闘鶏が行われていたことなどが江戸時代後期(文政年間)に書かれた「今治夜話」に出てくる。
また「川鳥を煮て食べると神のごとく痢病を治す」とも書かれていることから滋養強壮のための薬喰いもされていた、と考えられる。禁止令があっても、身近な鶏が食べられていたことは想像に難くない。
幕末になると肉食はポピュラーとなり、坂本龍馬がシャモ鍋を好んで食べていたことは有名な話。
明治以降、肉食の禁令が解かれ、鳥料理は「番頭さんは牛肉料理で旦那さんは鶏料理」といわれるほどの高級料理であった。供給の関係から昭和中期、ブロイラーが台頭するまで鳥肉は高級食材だったのである。
焼鳥も明治の半ばに鳥料理の店などから出るガラやスジ肉を使った屋台が橋のたもとや縁日の露店に登場し、庶民の人気を博している。
また、江戸時代から続いていた神社の参道で売られていた焼鳥店も変わらぬ人気を博していた。禁令を免れることの出来る寺社奉行の管轄地、米作の妨げになる雀を中心に焼鳥にしていた。
明治期には廃藩置県で禄を失った武士の多くが手軽な「鶏飼い」を始めた。卵と肉のための養鶏が各地で興ったのである。
大正十二年の関東大震災の後から焼鳥屋は全国に広がった。関東では豚の内臓を使った「焼とん」が人気を集めている。この豚や牛を使った「焼とん」は敗戦後の闇市でも活躍し、大衆的な食べ物として普及した。スタイルが似ているため、「やきとり」と称しているが、素材の点で焼鳥とは別物だと思う。
前述したように昭和三十年代まで鶏は依然、高級食材であり、焼鳥屋では上等な部位の串や野菜など従来にない種類の串が登場した。特にささ身はあっさりした上品な味により人気メニューとなった。
焼鳥の大衆化がはじまったのは昭和三五年頃からの食肉用ブロイラーの普及による。鶏の価格が安くなり、身近な食材となったためである。
この頃から、大衆焼鳥店が多く登場してくる。サラリーマンが会社帰りに立ち寄る場所として駅の近くに焼鳥屋が目立つようになる。
消費者の嗜好も変化した。安さだけではなく、味で勝負する時代となったのである。差別化を図るため、地鶏を使う店も増えている。安さと味の点からも全国的に焼き鳥は人気を集めており、チェーン展開を図る店が増えてきたのである。
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