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平成十一年五月一日、尾道市と瀬戸内しまなみ海道で結ばれる今治市。四国側、愛媛県の瀬戸内海にこんもりと飛び出た高縄半島の先端にある小都市である。
愛媛県外の人が今治市のことを知っているかというと「高校野球」「タオル」「新しく橋が架かる場所」といった具合。今治市は余り知られていない。今治市どころか愛媛県を知らない人もいる。ひどい人になると、愛媛県はポンジュース専用のパイプが水道のように家庭に通っている、と信じているらしい。愛媛県の旅行者調査によると、今治地域に旅した人はたった七・八%。ほとんどの人が松山、道後中心の旅行である。悲しいよね、これじゃ。
焼鳥の前に今治市のことをもっと知っていただきたい、というわけで今治市の概要を説明する。
今治市は古くから瀬戸内海の阪神と九州を結ぶ航路の中央に位置するため、商工業・交通、文化の要として発展してきた。
古墳時代の遺跡が点在するデベロッパー泣かせの地域。開発中に土器や遺跡らしきものが出土し、建設を遅らせた例が多々ある。奈良時代には国府・国分寺がおかれ、戦国時代には全国に名高い村上水軍が活躍した。十七世紀初めには関ヶ原の戦功により藤堂高虎が二十万石で封じられ、今治城が築かれる。江戸時代は久松家がこの地を統治し、明治時代の廃藩置県の際には今治県として四ヶ月間・石鉄県として一ヶ月間、今治に県庁がおかれたが、それはつかの間の夢、すぐに県庁は松山に移された。
現在は「四国の大阪」と呼ばれるように、タオルと造船が盛んな臨海工業都市。特にタオルは全国のタオル生産高の60%以上を占め、生産日本一となっている。また、造船は近世の帆船、明治以降の機帆船など水軍を始めとする地元の海運業と関係が深く中小型船建造の中心となっている。
人口は約十二万人。面積は七四・八五平方キロと狭いが、海岸部の白い砂の長い汀と緑の松林のコントラストが美しく、海水浴に最適。また、来島海峡の急潮の景観や中世の石造文化の遺跡、春祭の継ぎ獅子など観光資源も豊富である。知られてないけど。
今治出身の有名人というと、東京都庁を設計した丹下健三、オペラ歌手で日本初のプリマドンナ今井久仁恵、日本画家の智内兄助やイラストレーター空山基、ジャズトランペッターの近藤等則、古いところでは立川文庫の創設者山田敬などがいる。
今治の町並みを眺めると、料理屋と焼鳥屋の数が異様に多い。大正時代には遊郭があり、料理屋の数も多かったところからその名残かな、とも思うが違うようだ。何故料理屋が多いのか。
今治市と大島の間に来島海峡という瀬戸内海第一の難所海域がある。鳴門海峡に負けず劣らず、潮流が速い。春秋の大潮の時には十ノット以上の潮流となり、直径十メートル以上の八幡渦が発生する。
この海峡が今治市に料理屋が多い一因を担っているのだ。来島海峡は鯛やアコ、瀬戸の小魚を初めとする瀬戸内海の美味い魚の宝庫なのである。魚は来島海峡の潮を乗り切るために身体の各部を激しく動かさなくてはならない。そのため、魚の身が締まる。
だらしのないふやけた身の魚が、今治では刺身もとれるぷりぷりとした味な魚となるのである。潮に鍛えられた魚が美味しくなるのは当然の理。フィットネスクラブのような存在が来島海峡なのである。同じ愛媛県でも南予や伊予灘、新居浜とは味が違う。県内では来島の魚はブランド化しているのだ。
こうした瀬戸内海の美味しい海の幸が容易に手に入ることが料理屋の興隆を促したのではないか。
但し、弊害もある。美味しい材料のため、料理に手を加えることをしなくなったこと。懐石料理のように料理人の工夫と手技を加えることが今治では少ないのである。
また、刺身は新鮮な、弾力のあるものでなくては喜ばない。魚はコリコリとしていないと駄目なのである。漫画「美味しんぼ」でも説明されているが魚を寝かせるとアミノ酸が増え、旨味が増す。しかし、今治では生簀からあげたばかり、魚の身体が動いているような活造りが尊ばれる。
客の側では、不味い魚が食べられなくなってくる。不幸なことに、地物と養殖の味の違いが解るようになってくるのである。
この不幸は旅行へ行ったとき、顔を見せる。はるばる訪れた旅行先。楽しみの夕食。刺身が出てくる。旨さを出す時間以上に寝かされ、とうのたった魚。鮪ならばまだいい。冷凍であることが前提になっている。だが、鯛やハマチのときは悲惨である。「地物ですよ」と仲居さんが言っても、実は養殖ということがままある。「美味しいでしょ」と言われても素直に「はい」とは答えにくい。
これが今治に、魚の美味しいところに生まれた不幸なのである。
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