湯築城


  松山市道後湯之町

  湯月城とも書く。外堀・内堀・土塁・堀切  平山城


現在、北側は「子規記念博物館」。東側は伊予鉄道の「道後公園前」停留所と なっている。
ながく県立動物園であったが、動物園が砥部に移った後、発掘が行なわれ貴重 な遺物が出ている。

 
西側 道後公園停留所付近 外堀。
正面アーケードは道後温泉。
東側 堀・曲輪跡


  伊予国の中央、道後平野の押さえとしての位置にある。
山上からは四方の展望が開けている。西に味酒山(現在の松山城)があり、南北 新時代の一時期にはそれが官方の一拠点となって湯築城と対峠した。

  南北朝時代の河野通盛は、伊予における武家方の中心となって宮方と戦っ ているが、宮方の勢力は強く、足利尊氏は細川に安芸・上佐の軍を従えさせて通 盛を援助している。その頃、宮方では征西将軍懐良親皇が忽那島(中島)に渡り 、宮方は大いに振るい、1342年、土居通世・忽那教範らは湯築を攻めた。通 盛ほよく戦ってこれを撃退したが、翌年三月、再び湯築城は攻められ、激戦のの ち、湯築城は陥落した。しかし、通盛は勢いを盛り返すと、これを奪回した。

  戦国時代の1528年〜32、湯築城主は河野通直だったが、跡を継ぐべ き男子がなかった。そこで彼は来島城主村上通康を迎え入れようとした、ところ が重臣のほとんどが反対し、分家である予州家の河野通政を推して湯築城を取り 囲んで攻撃した。このため通直は来島城に落ち延びた。

  結局、湯築城主を継いだのは通政だったが、この時のしこりが尾を引き、 村上水軍が河野氏から離叛し、河野氏の滅亡を早める結果となった。結局、伊予 を攻め降伏させた、小早川隆景の先頭をつとめたのは村上水軍の来島(村上)氏 だった


  

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道後 湯築城

  「愛媛県埋蔵文化財調査センター」発行の資料より抜粋。