銅山 時化 (ドウザン シケ)

 明治32年(1899) 8月28日
別子銅山は、低気圧に襲われた。(台風と、当時は呼んでなかったようである)
旧別子地区では、山津波が発生して、一瞬にして、513名もの尊い命が奪われた。

 1691年(元禄4年) 開坑した別子銅山では、1,000mを超える高地であるがゆえに、
災害も数多く記録されているが、
1694年 (元禄 7年)の、大火災と、
1899年 (明治32年)の、大水害が、目に留まる。

 「8月28日の、午正午8時前後 1時間の合計量325粍6
(深さ曲1尺1寸にて 1坪面の溜量にすれば6石)」 との記録がある。(昔の記録を見てみる)


如何に、短時間で多量の雨が、暴風を伴って降ったか想像に絶する。

 当時、鉱夫の長屋は、急斜面にやぐらを建てて、水平な床を作り、その上に建てられたものが多かったから、
大出水に対しては一たまりも無く崩れた。
見花谷部落の、被害がひどかったのは、両側の見花谷、両見谷の二つの沢が出水による土砂で埋まり、
部落上部に溢れた水が洪水となって襲ったからである。
 現在で言えば、「見花谷で発生した”土石流”が、下部に在った、
高橋(タカバシ)精錬所・収銅所・倉庫等の緒施設を、一気に押し流した。」と言っていいだろう。

 現在でも、これだけの雨が降れば、災害は、間違いなくおきます。
それが、100年以上前、しかも、1000mを超える山間地です。
しかも、狭い土地(斜面)に、家族も入れると、13,000人もが、生活していました。
商店も、天地に軒を連ねて、銅山の繁栄を謳歌していたようです。
「伊予屋は、百貨店のようで、金毘羅から、松山までの間に、肩を比べる店はない。」
とまで、言われていました。

  伊藤玉男氏の、「明治の別子」より、抜粋


 この、災害について、調べて見ました。
住友の経営であった、別子銅山の災害記録は、写真も含めて記録として多く残されていました。
しかし、新居浜町等の記録は、少なかったのは確かです。
調査結果を、順次書いていきます。

 別子上部鉄道関連の被害状況

 新居浜村の状況

 ただし、なるべく古書等に書いてある記述を参考にしていますが、
個人的見解も、加わっている所もありますので、
ここは、間違いではないか? という箇所は、ご指摘ください。

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明治32年 8月28日は、何曜日だったのでしょうか ?
  又、自分の誕生日は ?

そんな疑問を解決出きるのが、このサイトです。 ”お気に入り”に入れて置けば便利です。

             曜日計算 http://keisan.casio.jp/exec/system/1177638326